■殉死・殉葬の習慣が廃れ、土器の「兵馬俑」を使用
身分が高い人の墓の副葬品とする土器の像「俑」のうち、兵士の形をしたものが「兵俑」、馬が「馬俑」で、両者を合わせて「兵馬俑(Bingmayong)」と呼ぶ。秦の始皇帝の陵墓から大量の兵馬俑が発見されてからは、単に「兵馬俑」として、始皇帝陵墓の兵馬俑を指すことも多くなった。
中国では古い時代、王侯などの死に際して殉死・殉葬の風習があった。考古学調査の結果、大量の人や馬の骨が出土した墓もある。約2200年前に秦始皇帝の陵墓で兵馬俑が使われたころから殉死・殉葬は廃れていった。ただし、明朝では初代皇帝太祖(朱元璋)の死去に際して殉死・殉葬が復活。清朝でも康熙帝の在位期間に禁止されるまで続いた。
秦始皇帝の陵墓は陜西省西安市の中心部から約37キロメートル離れた臨潼区にある。その存在は長い間忘れられていたが、明代には中国人が実地検分にもとづく記録を残した。20世紀前半には日本人やフランス人の研究者が調査した。
■干ばつ対策の井戸掘りで歴史的発見
周囲は農村地帯で、農民が墓を掘ったところ人の形の像が出てきたなどの言い伝えがあった。1974年3月、干ばつ対策のために井戸を掘ったところ、大量の「兵馬俑」の存在が明らかになった。
これまでに発見された「兵馬俑」は8000体以上。1号坑からは将軍とみられる「武士俑」500体を含む多数の兵馬俑、、戦車、青銅製の各種武器などが発見された。
2号坑は規模がさらに大きく、現在も発掘調査が進められている。3号坑は西側にあり、位置関係から1、2号坑の「司令部」とみられている。「司令官」は発見されていないが、「始皇帝自身が司令官なので、必要なかった」との見方がある。
4号坑は穴を掘っただけとみられ、出土品はない。
秦始皇帝陵墓の兵馬俑はすべて東向きに置かれていた。秦が中国西部で勃興した国で、他国攻略の際には東に向けて出陣したからと考えられている。
■世界遺産にも登録、四川大地震で一部に被害
兵馬俑を含む秦始皇帝の陵墓は1987年、ユネスコが主宰する世界遺産(文化遺産)に登録された。中国政府は兵馬俑の出土地点に秦始皇兵馬俑博物館を建設。開館は1979年で91年には1号坑、94年には2号坑の発掘現場も見学できるようになった。
2008年5月12日に発生した四川大地震では兵馬俑の一部にひびが入るなどの被害が生じたが、全体として大きな被害は発生していないという。(編集担当:如月隼人)
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