【秦王朝が滅びる】
紀元前206年、当時の中国を統一していた秦王朝が滅亡した。秦王朝を滅亡に追い込んだのは劉邦と項羽と呼ばれる二人の武将が参加する反秦軍であった。
【西楚の覇王を名乗る項羽】
秦王朝滅亡後、項羽は「西楚の覇王」を自称し権力を掌握する。戦いの中では凄まじい強さを誇った項羽であったが、政治では理不尽な人事を行なうなど人心掌握術に欠けているところが散見された。また、戦いの中で行なわれた10万人とも20万人とも言われる捕虜の大虐殺も人の心を離れさせる一員となっていた。
そんな折、項羽は楚の国の名目上の王であった懐王を暗殺する。政治に不満を持っていた各地の諸侯は、「王の殺害に対する蜂起」という大義名分を獲得、続々と反乱を起こす。
【楚漢戦争の始まり】
各地で反乱を起こす諸侯の中に、漢を治める劉邦の名もあった。これが紀元前206年から紀元前202年の約5年もの間続いた楚漢戦争の始まりである。この楚漢戦争のさなか、項羽は虞美人と出会ったと伝えられている。
これまでは妻などを持つことがなかった項羽であったが、項羽は深く虞美人を愛し、劉邦との熾烈を極める楚漢戦争のさなかでも片時も虞美人を離さなかったという。
【四面楚歌】
紀元前203年、劉邦と和睦を結んだ項羽は楚の国へ帰還の途についていた。しかし、劉邦は和睦を反故、背後から項羽軍に襲い掛かり、項羽軍は徐々に追い詰められていく。その時、項羽陣営の四面を囲む敵から自分の故郷である楚の歌が聞こえてくる。
あらゆる方向から聞こえてくる楚の歌を耳にした項羽は、すでに故郷が劉邦軍によって陥落したものと思い込み、もはやこれまでと決死の特攻を決意する。項羽は愛する虞美人だけは逃したいと願ったが、虞美人は劉邦に下るのを拒否、自ら命を絶ったと伝えられている。形勢で圧倒的に勝る劉邦軍を前に諦めた項羽も自らの首を刎ね、絶命した。
楚漢戦争を制した劉邦は紀元前202年に皇帝に即位し、前漢・後漢と合わせて約400年間続く漢王朝を築きあげたのである。(編集担当:畠山栄)
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