文化大革命中に海軍第一政治委員を務め、共産党政治局員でもあった李作鵬が2009年1月に亡くなった。彼は当時、軍総参謀長の黄永勝、空軍司令員の呉法憲、軍総後勤部長の邱会作(いずれも共産党政治局員)とともに、林彪を支える「四天王」と称された。
彼の死によって、「四天王」はみなこの世を去ったことになる。
 
 香港の月刊誌『争鳴』(09年2月号)によると、李作鵬は亡くなる2か月前の08年11月、共産党指導部や最高人民法院などに「無罪」の訴えを提出していた。実に71回目の、そして最後の訴えだったという。
 
 李作鵬は黄永勝らと同様、1980年から翌81年にかけての「林彪・四人組裁判」の被告であり、懲役17年、政治権利剥奪5年の判決を受けた。共産党と国家の最高権力の奪取を図った林彪の活動に積極的に参画したとして有罪にされたのだった。だが、『争鳴』によると、李作鵬は、事実とは異なり何の証拠もない、と主張したのである。黄永勝も33回、呉法憲も60回、邱会作も52回、それぞれ生前に同様の訴えを提出していたという。
 
 呉法憲は2004年に亡くなったが、死後の06年に『呉法憲回憶録』が香港の北星出版社から刊行されている。上下2巻、1000ページ近くに及ぶ。彼は李作鵬と同じく、懲役17年、政治権利剥奪5年とされたが、判決に対する彼自身の見解が回顧録の最後に掲載されている。それは次のように述べている。
 
 「私は一途に共産党を擁護し、毛主席を擁護してきた者であり、党中央に対する、毛主席に対する堅い信念は変わることなく、かつていささかも揺るがなかった。
(中略) 『文化大革命』において、まさに盲目的に毛沢東の指示を貫徹執行したがために、各種各様の誤りを犯したのである」
 
 呉法憲はその見解のなかで、裁判での焦点だった林彪による最高権力の奪取と「四天王」たちのそれへの積極的参画に関して反論している。彼はまず、林彪が毛沢東に次ぐ地位にのぼることができたのは、林彪が中国革命において巨大な功績をあげたからであり、毛沢東自身が林彪を抜擢したからであり、林彪が奪取したものではない、と指摘する。
 
 林彪が最高権力の奪取を狙った証拠のひとつとしてこれまで取り上げられてきたのが、国家主席制度の存廃問題で、林彪および側近の呉法憲らは、林彪の国家主席就任、実権簒奪にむけて、国家主席ポストの廃止に反対したというのである。そうした非難は、もともとは毛沢東が言い出したものだった。だが、呉法憲は同じ文章で、1林彪自身が国家主席就任を望んでいたという証拠は何もない、2林彪らが国家主席ポストを維持すべきと主張したことは犯罪でも何でもない、3たとえ林彪が国家主席になりたいと考えていたとしても、それは犯罪でも何でもない――と反駁している。
 
 呉法憲らの訴えは宙に浮いたままである。彼らの名誉が回復されることは、近い将来においてはありえないだろう。ここで問われているのは、是非、善悪の判断基準を何に求めるか、ということである。毛沢東、つまり「勝者」あるいは最高権力者の言動が基準なのか、ということである(このコラムでは、1949年以降の「共産党の中国」における「事件」とその「事件」の周辺を素材に、「現代中国」について考える。文中、敬称略)。(執筆者:荒井利明 滋賀県立大学教授)

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