日本語と中国語(176)-上野惠司(日本中国語検定協会理事)

(61)スッポン料理にありつくはずが……

 駆け出しの頃に教えた学生に街でばったり会った。しばらく立ち話をした後、その辺でめしでもということになった。


 食卓に着くや、彼、開口一番「今日は朝から人差し指がピクピクしていました。」

 一瞬何のことかわからず、「え?」という表情を示したところ、「先生に教わりました、人差し指が動いたらご馳走にありつけるって。」

 それでわかった。ただしいつそんなことを教えたのか、まったく記憶にない。

 「人差し指」と言うから反応が遅れたのである。「食指」と言ってくれれば即座に反応できたのに(と、これは言いわけ)。

 「食指が動く」という故事は『春秋左氏伝』に出てくる。魯の宣公四年(紀元前605年)のこと、楚の人が鄭の霊公に鼈(すっぽん)を献上した。公子の子公と子家が連れ立って参内しようとすると、子公の食指がピクピクと動いた。

 子公はその指を子家に見せて言った。「これまでこういうことがあると、必ず珍しいご馳走にありついたのだ。」

 入っていくと、はたして料理人がすっぽんを割いている。思わず二人は顔を見交わして笑った。霊公が笑ったわけをたずねたので、子家が食指のことを話したところ、いよいよすっぽんのスープを配る段になって、わざと子公には配らせなかった。怒った子公はスープの鍋に指を突っ込み、その指をなめながら退場した。


(62)食い物の恨み?

 意地悪をした霊公もおとなげないが、腹いせに鍋に指を突っ込んだ子公も子公だ。

 子公の無礼なふるまいに腹を立てた霊公は、子公を殺そうとした。そうはさせじと、子公は先手を打つ計画を子家にもちかけたが、子家は、国君を殺すのはよくないと言って同意しない。すると子公は、それならばと逆に子家を霊公に中傷して無実の罪を着せようとする。恐れた子家は、やむなく同調して、二人で主君を殺す。

 ――ざっとこんな話である。『左伝』がどうしてこんなけったいな話を記録したのか。まさか食い物の恨みはこわいということを伝えたかったからではあるまい。

(63)「春秋の筆法」

 『左伝』という本は、孔子が編んだと伝えられる(これはたぶんに疑わしいが)編年体の魯国の歴史書『春秋』に物語ふうの注釈を加えたものであるが、上の故事は『春秋』の「夏、六月乙酉、鄭ノ公子帰生(きせい)、其ノ君夷(い)ヲ弑(しい)ス」に対する箇所である。

 帰生とは子家のことである。夷、すなわち霊公を殺した主謀者は子公であるにもかかわらず、『春秋』に子家の名だけが記されているのは、彼に子公の逸脱した行為を阻止する機略がなかったからだというのであるが、わかったようなわからないような話である。

 また、殺された霊公について、「其ノ君夷」のように名のみを記すのは、君が無道であったからであり、「(臣某)其ノ君某ヲ弑ス」のように記すのは、臣に罪があったからだという。


 ――こういう持って回った記述のしかたを「春秋の筆法」と称する。

 『左伝』のこの話から「食指が動く」は食欲をそそられること、転じて広く物事に興味・関心を持ち、何かをしてみたいという気持ちを起こすことをいうようになったのだが、今、日本語では多く「食指を動かす」のように使われる。他球団のスタープレーヤーにすぐ食指を動かす金持ち球団がありましたね。(執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)

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