劉会長は曹操の墓についての研究を30年以上続け、専門書「曹操墓の研究」も著した経歴の持ち主。「曹操高陵」を曹操の墓と断定するには、いくつかの疑問が残るという。
まず、河南省文物局が「曹操の墓」と断定した最大の決め手と説明した「魏武王」の文字が刻まれた石板だ。曹操が漢の献帝により「魏武王」に封じられたことは事実だが、埋葬との微妙な前後関係で疑問が残るという。歴史書によると曹操が葬られたのは2月。「魏武王」の称号を得たのが2月以前ならば問題ないが、埋葬後に称号を得たならば、「石板」の文字は意味をなさないことになる。
曹操は、自らの「印」も、墓に入れないよう命じたと伝えられる。政敵に墓を暴かれるのを恐れたからで、身分が分かる物を残さないためだ。曹操は自分の墓を分からなくするため、各地に「廟」を作ったとされる。「本当の墓」が分かりにくくなった大きな原因だ。わざわざ「魏武王」と彫らせた石板を墓に入れたのでは、曹操の遺志と矛盾が生じる。
また、曹操は生前、倹約を旨(むね)としており、金・銀・鉄製武器などを贈答品にしたり副葬品にすることを禁じていた。「曹操高陵」に大量の「禁制品」が副葬されていたことは、おかしい。
劉会長は、曹操の墓は孤立してはおらず、配下の墓とともに、規模の大きな「墓群」を形成しているはずと指摘。漢の制度を踏襲したもので、劉会長の研究によれば、曹操の墓の近くには26人の墓が設けられた。その筆頭に挙げられるのが夏侯惇の墓だ。
劉会長は「『曹操高陵』は夏侯惇の墓の可能性がある」と主張。夏侯惇は曹操が最も信頼した武将であり血縁関係もあった。夏侯惇は曹操のすぐ後に死んだとされている。「曹操高陵」からは、魏の支配者であった曹操が甲冑(かっちゅう)を身にまとい、弓矢を持つ機会はあまりなかったはずだが、「曹操高陵」からは大量の武具が出土した。劉会長によると、「曹操高陵」は武将の墓の特徴を備えている。
ただし、河南省許昌市内には、かつて「夏侯惇の墓」と伝えられる墳墓が存在したとされる。盗掘や、付近の住民が長年にわたり土を取り去ったため、現存していない。
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