台湾の国民党党史館の邵銘煌主任が、「当館が保存している資料に、蒋介石の宋美齢に対する求愛の過程が記録されている」と語った。中国新聞社香港支局は16日付で報じた。


 蒋介石の活動や心情が書かれているのは、蒋中正(蒋介石)日記抄本。蒋介石が初めて宋美齢に会ったのは、上海市内の孫文の旧居で、「一目ぼれ」だったという。蒋介石は国民革命軍を率いて北伐を遂行したが、転戦のたびに手紙を書き、「江西省の南昌に行くので、会ってほしい」など、デートの申し込みもした。

 1927年3月と5月には、「一日中、彼女のことをおもっていた。心が離れない」など、情熱的なことばもあるという。

 同年9月には、宋美齢が結婚のプロポーズを承諾。蒋介石は11月、日本に滞在していた宋美齢の母親に会いに行った。日記には「お母さんはうれしそうだった。喜んで(結婚に)同意してくれた」と、むしろ、母親の了解を得たことで有頂天になる、蒋介石の心情がうかがえる記述がある。

 蒋介石は、孫文にならって、日本で結婚式を挙げる意向だったという。当時の日中関係は比較的安定しており、日本での挙式は実現可能だった。ただし、中国では1919年の五四運動などで、対日感情が悪化していた。
蒋介石・宋美齢の日本での挙式は、母親の反対で実現しなかった。

 ふたりの結婚式は上海市内で1927年12月1日に、上海市内のホテルで行われた。招待客は1000人で、「政治目的の結婚」との批判もあった。しかし、結婚してから半年後の蒋介石の日記には「北伐成功は、妻の助けがあったから。(妻には功績の)半分がある」と書かれており、邵主任は「蒋介石は結婚したことで、賢夫人による精神的な支えを得た」との見方を示した。

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◆解説◆
 上記記事内容には、すでに知られている部分もあるが、中国本土で改めて「人間味ある蒋介石像」が紹介されたことが注目に値する。

 中国本土ではかつて、蒋介石に対して「無能で冷酷、しかも強欲」、「軍国主義日本の侵略に対して、さしたる抵抗もしなかった」など、悪意に満ちた評価が定着していた。

 風向きが明らかに変わりはじめたのは、中国共産党が「独立派」と警戒する民進党の陳水扁政権が誕生した2000年ごろから。現在でも「中国を救うことができたのは、共産党だけだった」との主張には変化がないが、蒋介石に対して「平和な時代だったら、よき国家指導者になれただろう」などと評価する文章も、発表されるようになった。

 なお、蒋介石は対日戦にあたり、米国を巻き込むなど世界的視野での日本軍駆逐を企図していた。共産党勢力を警戒し、自らの兵力を温存する意図もあったとされる。宋美齢は米国内で反日感情を盛り上げる活動を盛んに行った。
(編集担当:如月隼人)

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