呂布カルマが振り返る『フリースタイルダンジョン』「風当たりこ...の画像はこちら >>

『週刊プレイボーイ』でコラム「呂布カルマのフリースタイル人生論」を連載している呂布カルマ
ラッパーとしてはもとより、グラビアディガー、テレビのコメンテーターなど、多岐にわたって異彩を放っている呂布(りょふ)カルマ。『週刊プレイボーイ』の連載コラム「呂布カルマのフリースタイル人生論」では『フリースタイルダンジョン』について語った。

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★今週のひと言「『フリースタイルダンジョン』に俺が出演を決めた理由」

今回は『フリースタイルダンジョン』(テレビ朝日、以下FD)についての思い出話。

俺のことをFDで知った人も多いだろうし、自分のキャリアの上でもかなり重要な位置を占めている。22歳でラップを始めてから10年以上、制作とLIVEとMCバトルに明け暮れた俺がテレビの世界に触れるキッカケとなった番組だ。

2015年の放送当初、俺はまだ学習塾で教室長を務めており、昼はサラリーマン、夜はラッパーの二足のわらじを履いていた。FDは俺の暮らしている名古屋では放送されておらず、肯定も否定も含めて断片的にSNSなどを通じて噂レベルで入ってくる状況だった。

確か、番組発足時の建て付けとしては、MCバトルの才能ある若手ラッパーをモンスターたち(ラッパー界のビッグネーム)と対戦させてフックアップ(発掘)する、というものだった。

そのため、すでに当時30歳を過ぎていて、ほそぼそとはいえラップで飯が食えており、バトルシーンにおいては名の通っていた俺には関係のない話だった。

しかし、いつの間にか中堅、ベテランといわれるラッパーたちも出場を果たすようになり、番組がヒップホップの垣根を越えて話題となる頃には"チャレンジャー呂布カルマ待望論"が湧き起こるようになっていた。

けど、あまのじゃくな俺は、FDに出演することで不相応なほどのプロップス(リスナーやストリートからの支持)を得たポッと出のラッパーや、番組そのものに対してもうがった目で見ていた。

実際、何度か出演オファーをもらっても、そのたびに何かしらの条件をつけて断り、初登場に向けての価値をつり上げていった。

そして当時めぼしいチャレンジャーが一周してしまい、再登場含めてチーム戦となっていたFDに、満を持してVIPチャレンジャーとして単独で挑んだ。結果はステージ4で現在は説明するまでもないが、当時ラスボス・般若前のストッパーとして最強の名をほしいままにしていたR-指定に完膚なきまで叩き潰され、試合中に俺は白旗を振ったのだった。

しかし、その反響はすさまじく、いまだ過去イチかもしれないと思うほど。"FDバブル"ともいえるものを実感し、本来ラスボス・般若を倒して全クリすることで100万円の賞金を得られるのだが、途中敗退したにもかかわらず十分すぎる見返りを得たのである。

そして間もなくして、モンスター総入れ替えの際に2代目モンスターとして選出。ほかには裂固(れっこ)、ACE、輪入道、崇勲(すうくん)という、世代も地元もバラバラの猛者たちや、すでに第一線を退いていた生ける伝説、FORKさんと選ばれ、同じチームとなった。

2代目発足時は、もともとそれぞれがチャレンジャーで、いわば番組の敵だった側からの成り上がりだった俺たち6人は、多少の警戒心や緊張感からよそよそしかったものの、いやでも応でも押し寄せる数多くのチャレンジャーたちとの対戦を通じて次第に一丸となり、チームとして固まっていった。

番組が終わって久しい今でこそ伝説のように語られるFDだが、当時は初出場前の俺がそうだったように、良くも悪くもテレビという枠に収まるために大人の手の加わった番組をリアルではないとする同業者からの風当たりはあった。

しかし、その風当たりこそが、番組構成はともかく、バトル自体にはガチで挑んでいた俺たちをよりいっそう固く結びつけたのだった。

撮影/田中智久