モーリーの提言。「決断」さえできれば、日本はずっとよくなるの画像はこちら >>
『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、日本社会の大きな課題のひとつである「決断」について考察する。

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2023年3月、アメリカのシリコンバレーバンク(SVB)とシグネチャー・バンクが相次いで経営破綻し、金融市場は緊張に包まれました。

それから1年がたち、米メディアでは危機を振り返る特集記事がいくつも発表されました。

きっかけはSVBがムーディーズから格付け降格の宣告を受け、増資を発表した際に、シリコンバレーのカリスマであるペイパル創業者ピーター・ティールが率いるファンドが不穏な動きを見せたことでした。またたく間に広がった取り付け騒ぎを抑えるべく、ジャネット・イエレン財務長官やジェローム・パウエルFRB長官は「異例かつ迅速な対応」を取り、なんとか金融危機の拡大やさらなる金融機関の連鎖破綻という最悪の事態は回避されました。

世界がリーマン・ショック後のような金融不安に陥ることなく、今も米経済が好調を維持できているのは、イエレン氏やパウエル氏をはじめとする金融当局の決断と実行力が奏功したと評価されています。

アメリカがさまざまな社会課題を抱えていることは事実ですが、その強さの理由は、リーダーたちがいざというときに逃げたり思考停止したりせず、「決断」をすることでしょう。それが常に正しい決断であるとは限りませんが、少なくとも、すべき人がする。

おそらくその根幹にあるのは、個人の決断力の有無といった属人的な事情ではなく、問題解決への強い意志が社会に根づいており、その集積として強い決断がなされ続けているのだと私は分析しています。

そういった視点から考えると、日本という国があらゆる問題を先送りしているのは、決断力のあるリーダーの不在よりも、「何も解決したくない」という国民の(無意識の)意思が最大の原因かもしれません。学校や会社でも、解決すべき問題があってもハードな議論をすることなく、はぐらかしながら「よしなに」やっていく――それは日本社会の一種の"お作法"です。

日常レベルではそれでうまくいくことも少なくないのでしょうが、そうやって議論や対話を避け続けた結果、政治的な意見の対立においても、両陣営が互いに歩み寄れる限界点(≒落としどころ)を模索することが極めて苦手になってしまったのではないでしょうか。

例えば憲法にしても、米軍基地にしても、原発にしても、移民にしても、意見が二分される問題についてマイクを握るのは、多くが「そもそも解決する気のない人たち」です。それは得てして徹底的に自陣営向けのパフォーマンスに終始し、肝心の「じゃあ、どうするのか」というゴールはいっこうに見えません。

ややきつい言い方になりますが、そうやって「忘却」や「逃亡」という無為無策を繰り返していくうちに、いつの間にか日本は"安いだけの国"になり、ヒトやモノが買い叩かれ始めています。

水平線の向こうには、高級レストランやハイエンドなホテル、ラグジュアリーなブランド店が国際的な富裕層向けになり、日本の庶民は従業員として出入りし、たまに開催されるバーゲンにだけ買い物客として殺到する――そんな未来も見え始めています。

いや、そもそも日本の各地方からは、人口激減で日本人の存在そのものが事実上「消えてしまう」地域すら出てくるかもしれません。30年後、40年後の日本がどうあってほしいのか。それを真剣に考えるのは、次の世代に向けた大人たちの責任です。

安全保障の環境がどんどん変わっていく中での対処も求められます。

片方に「日本政府は国民を戦争に導こうとしている。戦争ができる国にしてはならない」と純粋な平和主義にこだわる陣営がいて、もう片方には「国に命をささげるのは、大変勇気のあることで称えられるべきだ」と太平洋戦争を美化する扇動者がいる、というのはあまりにお粗末な選択肢です。

ただし、私は決して悲観しているわけではありません。ほかの民主国家がやってきたことをこれだけ先送りにしても、日本という国は(幸運ももちろんありますが)持ち前の勤勉さで、今の地位や豊かさをここまで保ってきました。

言い換えれば、これから当たり前のことをするだけで、もっと力を発揮できる。これはある種の伸びしろです。

逃げなければいい、その気になればいい、そしてハードな議論という「宿題」をやれ、というだけのことです。