その名を世界にとどろかせた名物経営者! 中小企業のオヤジ・鈴...の画像はこちら >>

40年以上、スズキの経営を第一線で牽引してきた鈴木修氏。現場主義に偽りなく、90歳超でもほぼ毎日本社に顔を出していたという

経営トップとしてスズキを世界的な自動車メーカーに成長させた鈴木 修氏が昨年12月に亡くなった。

彼はどのようにして軽自動車を〝庶民の足〟に育て上げ、インド市場への進出を成功させたのか? 独自の哲学と言葉で多くの人を魅了した男の仕事に迫る。

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■反骨精神と現場主義

スズキの名を世界にとどろかせたのが、昨年12月25日に94歳でこの世を去った鈴木 修氏。〝中小企業のオヤジ〟を自負した名物経営者である。

「鈴木氏は、『負けてたまるか』という反骨精神を生涯貫き通し、日本の軽自動車市場を席巻し、インドを自動車大国にまで育て上げました」

こう語るのは自動車誌の元幹部。鈴木氏は1930年、岐阜県下呂町(現下呂市)に生まれた。中央大学法学部を卒業後、銀行員としてキャリアをスタート。だが、58年に、スズキ自動車工業(現スズキ)の2代目社長の娘と結婚し、婿入りする形で同社に入社した。

「当時の社内では〝外様〟として冷ややかな目で見られていたそうです。しかし、彼はその逆風をバネにのし上がっていった。その武器は〝反骨精神〟と〝現場主義〟でした」

78年、社長に就任した鈴木氏を待ち受けていたのは、排ガス規制への対応失敗による経営危機だった。そんな中、翌年に投入したのが、伝説の軽自動車・初代アルト。自動車ジャーナリストの桃田健史氏はこう言う。

その名を世界にとどろかせた名物経営者! 中小企業のオヤジ・鈴木 修が挑んだ 「スズキ躍進」の軌跡
当時、軽自動車市場の低迷などで未曽有の経営危機に瀕していたスズキだが、この初代アルトが起死回生の一手に

当時、軽自動車市場の低迷などで未曽有の経営危機に瀕していたスズキだが、この初代アルトが起死回生の一手に

「当時47万円という衝撃の価格で登場したアルトは、まさに〝乗用車の価格破壊〟でした。

その結果、商用車のイメージが強かった軽自動車を、主婦層を巻き込む乗用車へと変えた。これにより原付二輪車から軽へと庶民のモビリティシフトも進みました」

コスト削減と軽量化で低価格を実現したアルトは〝庶民の足〟として爆売れし、スズキは息を吹き返した。

■世界の大巨人と蜜月を築く

93年には「軽のワゴンであーる」という鈴木氏渾身のダジャレから命名されたワゴンRが鮮烈デビューを飾る。ご存じのようにワゴンRはメガヒットし、スズキは2005年まで34年間にわたり軽自動車市場でシェア1位を守り続けた。

その名を世界にとどろかせた名物経営者! 中小企業のオヤジ・鈴木 修が挑んだ 「スズキ躍進」の軌跡
1993年にスズキから爆誕したワゴンR。このクルマで軽ハイトワゴン旋風をニッポン市場に巻き起こした

1993年にスズキから爆誕したワゴンR。このクルマで軽ハイトワゴン旋風をニッポン市場に巻き起こした

「当初、ワゴンRは若者や男性向けのスポーティ路線で企画されましたが、女性にも支持され、軽市場の拡大に貢献しました」(桃田氏)

アルトは累計約539万台、ワゴンRは約510万台を販売し、スズキの〝屋台骨〟に!

だが、鈴木氏の手腕は国内市場にとどまらない。81年には米GM(ゼネラルモーターズ)と提携する。大勝負に打って出たのだ。その会見での鈴木氏の発言が痛快で、今も語り草になっている。

「GMは大きなクジラ。うちはメダカ? いや、蚊ですよ。メダカならのみ込まれるが、蚊なら空高く舞い上がって逃げられる」

このユーモアあふれる比喩で報道陣をけむに巻いた鈴木氏。ちなみにGMとは27年間の蜜月関係を築いた。

桃田氏はこう語る。

「スズキは鈴木氏の〝勘ピューター〟によって大胆な海外戦略を描いてきました。むろん、単なる勘ではなく、データに裏打ちされた企業戦略ですが、最終的には鈴木氏の『先を読む力』と『臨機応変に軌道修正する度胸』の影響が大きかった」

要は独自の戦略眼で、世界市場を読み切っていたのだ。

「確かに小型車領域でのパートナー探しをしていたGMとのパートナーシップは、一時は各市場にハマっていました。しかし、市場の変化が進む中で戦略の修正を余儀なくされました」

2006年にGMの経営悪化で提携を解消したスズキ。その後、09年には独VW(フォルクスワーゲン)と提携するも、VW側の戦略変更により関係は悪化。スズキは11年に国際仲裁裁判所に提訴し、15年に勝訴。16年からトヨタと提携関係を築いている。

■インド市場をどう開拓したのか?

鈴木氏の最大の功績とされるのが、インド市場への進出。83年にインド政府の国民車構想に滑り込みで参入し、合弁会社「マルチ・ウドヨグ(現マルチ・スズキ)」を設立。初代アルトをベースにしたマルチ800を投入した。

「日本の中古設備を活用し、現地仕様にカスタマイズ。

鈴木氏は自ら工場を巡り、社員食堂で現地従業員と食事を共にするなど、現場主義を貫いた。実際、90歳を超えてもインド出張をこなしていました」(前出・自動車誌元幹部)

その名を世界にとどろかせた名物経営者! 中小企業のオヤジ・鈴木 修が挑んだ 「スズキ躍進」の軌跡
現在スズキの新車販売の半分以上を占めるのがインド。写真はインド産のジムニーノマド。日本市場でも話題を呼んでいる

現在スズキの新車販売の半分以上を占めるのがインド。写真はインド産のジムニーノマド。日本市場でも話題を呼んでいる

その結果、スズキはインド市場で約4割のシェアを誇り、インド産の「ジムニー・ノマド」も日本で注文が殺到している。

実際、鈴木氏のインドへの貢献は想像以上。何しろ昨年12月、鈴木氏が亡くなると、インドのナレンドラ・モディ首相は自身のXで、「インドの自動車市場に革命をもたらした」と追悼したほど。今年4月には、インド政府から国家勲章のパドマ・ビブシャンが授与された。これは民間人としては2番目に高い栄誉だ。

その名を世界にとどろかせた名物経営者! 中小企業のオヤジ・鈴木 修が挑んだ 「スズキ躍進」の軌跡
インドの大統領官邸で、故・鈴木 修氏に国家勲章が授与され、鈴木俊宏スズキ社長が代理で受け取った

インドの大統領官邸で、故・鈴木 修氏に国家勲章が授与され、鈴木俊宏スズキ社長が代理で受け取った

ユーモアと気さくさで社員を鼓舞し、失敗を恐れぬ反骨精神で世界市場を相手に戦い抜いた鈴木 修氏。その魂は、これからもスズキのDNAとして生き続ける。

取材・文/週プレ自動車班 撮影/山本佳吾 写真/共同通信社

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