寺院は静けさを保っているが、各所に武装したカンボジア兵士がいて物々しさもある。写真はライフル銃を椅子に立てかけて休憩をする兵士
カンボジアとタイの国境にある世界遺産「プレアビヒア寺院」周辺は両国が長らく領有権を争ったエリアだったが、近頃銃撃戦の発生をきっかけに対立が激化。
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■"天空の寺院"に満ちる静かな緊張
双眼鏡を手に持ち、高台から森の中をのぞく複数の男たち。国境付近で軍や警察が、隣国の不穏な動きを24時間態勢で監視していた。
カンボジアとタイは今、領土問題を巡り一触即発の緊張状態だ。事の発端は今年の5月28日。両国の国境未画定地帯で銃撃戦が勃発したことにある。
銃撃戦ではカンボジア兵1人が死亡。双方は「相手が先に発砲した」と責任をなすりつけ合い、約10分にわたる撃ち合いを繰り広げたのだった。

9世紀頃に建設された「プレアビヒア寺院」はアンコールワットよりも古い世界遺産として知られている
この衝突に端を発して、両国のにらみ合いは日ごとにヒートアップする。タイは国境検問所を軍事統制下に移行し、国境を封鎖。さらに住民に対して避難訓練を指示した上で、軍は「高レベル作戦」の準備をするとまで公言した。
こうしたバトルに、在タイ日本国大使館も6月8日と24日の2度にわたって注意喚起を発表。当面の間、国境付近には不用意に近づかないよう促している。今後は、「両国の出方によっては激しい軍事衝突の可能性も否めない」(外信部記者)という。
アンコール遺跡群で知られるカンボジアの都市シェムリアップ。そこから車で約5時間走ると、ユネスコ世界遺産の「プレアビヒア寺院」にたどり着く。この場所から、さらに北東に進んだ国境の山中で、くだんの銃撃戦は起きた。

プレアビヒア寺院は"天空の寺院"と称され、断崖絶壁の上にある。アンコールワットより古い9世紀に建てられた。崖のすぐ下にはタイの領土が広がっている。
同寺院は、1950年代からその領有権を両国が争ってきた。すでに国際司法裁判所(ICJ)によって同寺院はカンボジア領と認められているものの、国の境が曖昧な緩衝地帯では長年にわたって小競り合いが続いてきた歴史がある。
筆者が同寺院を訪れたのは6月末のこと。
寺院の目と鼻の先がタイである。普段は多くの観光客でにぎわうはずの休日だが、外国人観光客の姿はあまり見かけない。代わりに目に入るのが、周囲の警戒に当たる軍と警察だ。

観光客が激減し、シャッターが閉まった店の前を通り過ぎる軍関係者
「プレアビヒアはカンボジアを代表する観光地のひとつですので、多くの軍人は銃器を草むらの中や、建物の中に隠すなどして、一応、観光客に気を使っています」
そう話すのは、地元で観光業に従事する男性、ベンさん(35歳)だ。
寺院の敷地内を歩くと、観光客相手の屋台食堂で働く50代の女性が、「(銃撃戦から)お客さんが突然、来なくなったよ」と嘆いていた。
実は彼女の夫は、カンボジア軍の兵士として、同寺院で国境を監視する任務に就いている。そのため夫婦で、寺院の近隣に住んでいるそうだ。
「軍人が家族にいない近所の人たちはもう安全な場所に避難したよ。ここにいて怖くないかって? それは心配だよ。でも夫が働いているから、家族はここで暮らすしかないの」
見通しの良い場所から双眼鏡を使ってタイ側の道路を監視するカンボジアの兵士
見通しの良い場所から双眼鏡を使ってタイ側の道路を監視するカンボジアの兵士
■ICJの決定を認めないタイの工作

寺院に向かう山道や寺院内には、カンボジア兵がタイ側を監視するための小屋が点在していた。じっとタイ側を監視している者、無線で連絡を取り合う者、スマホを片手に休息を取っている者などさまざまだ。
この寺院から少し離れ、うっそうと木々が生い茂る道をひたすら進むと、森に囲まれた小さな空き地が現れた。
「軍人はこの家に家族と住み込んで、タイ側の動きを常に監視しています」(前出・ベンさん)

プレアビヒア寺院周辺、緊張の最前線に派遣されたカンボジア軍兵士に家族も同行。洗濯物を干す女性の前には塹壕(ざんごう)が見える
民家の前では軍人の妻と思われる女性が洗濯物を干す姿もあった。そのすぐ目の前には有刺鉄線が敷かれている。まさにカンボジアとタイの国境の最前線だ。有刺鉄線の数m先には、タイ軍の監視小屋まで見えた。
「ここで写真は撮るな!」
そう詰め寄ってきたのは現地にいたカンボジアの軍人だ。その軍人はタイ側を指さしながら、こう続けた。
「あいつらが見ているから危険だ。カメラを出すな」
この軍人によると、タイ側は夜間になるとドローンを飛行させてカンボジア側の動きを常に監視しているという。

タイ側からプレアビヒア寺院へアクセスするためのゲートは閉じられ(奥)、その手前には有刺鉄線が敷かれている
カンボジアとタイの国境付近には、このプレアビヒア寺院だけでなく、国境に接した複数の遺跡が存在している。
「7月、タイの司令官は国民に、こうした遺跡を積極的に訪問するよう呼びかけました。
さらに最近、ある遺跡がグーグルの地図上でカンボジア領として示されていることが話題になりました。タイ側は、グーグルの表記に対して『法的に従う義務はない』と主張しています。今も小競り合いは収まる気配がありません」(現地ジャーナリスト)
近年、日本への特殊詐欺拠点として話題になっている国境の町、ポイペトのゲートも閉ざされた。現地を訪れると、国境前で途方に暮れた住民の姿があった。
「カンボジアはタイに対して輸入制限をはじめインターネット回線まで止め、映画やドラマ放映も禁止している。最近は、ポイペトの国境で夜中にこっそり壁を乗り越えてタイに渡ろうとした市民が警察に捕まる騒動も起きている」(前出・外信部記者)
物流はストップし、これまでタイ人が多く訪れていたカジノホテルの利用者も、中国人ばかりになった。

カンボジア西部にあるポイペトはタイと国境を接する町だったが、現在その門は閉じられている
カンボジア・タイ国境紛争の影響は、日系企業や邦人にも無関係ではない。
タイには約6000社の日系企業があるといわれており、その家族も多く住む。また、カンボジアにも製造業や流通業をはじめとした多くの日系企業が進出している。
それだけに、製造や調達計画、それに輸送ルートの変更を余儀なくされるなど、さまざまなリスクが懸念される。
今後、カンボジアはICJに解決を求めていく予定だが、タイ側はこれを拒否し、2国間での協議を主張している。

プレアビヒア寺院の中で祈っていたカンボジア人の若い僧侶
取材・文/甚野博則 撮影/郡山総一郎