『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、新興右派政党の躍進や、石破政権の苦境によって一部でささやかれるようになった「右派ポピュリズムが日本の政治の中心に座る」という観測について考察する。
* * *
メキシコ湾に面する米南部ルイジアナ州ニューオーリンズは、17世紀末にフランス領ルイジアナとして定住が始まり、奴隷貿易の拠点として栄えた都市です。
以来、個人の人権と多様性を重んじる戦後リベラルのあゆみとはまったく違う文脈で、それよりもずっと前から、この土地では自由身分と奴隷身分、黒人と白人......など、人種もカルチャーも入り交じる独特の「クレオール文化」が形づくられてきました。
年に1度、カトリックの断食前に行なわれる謝肉祭の最終日に当たる「マルディグラ」では、仮面と羽根飾りの群衆が通りを埋め尽くし、昼夜を問わず狂乱のパレードが繰り広げられます。
旧フランス人街にはジャズクラブやバーがひしめき、歴史的に売春や同性愛にも寛容。日常に深く溶け込んだ音楽、酒、賄賂、麻薬......。"アメリカでも最も腐敗した享楽的な都市"というイメージが広く浸透しています。
私も若い頃に訪れたことがありますが、良くも悪くも「ここにいたら抜け出せなくなる」と心底感じるような、不思議な場所でした。
それを象徴するような郷土料理が「ガンボ」です。さまざまな食材をスパイスと共に長時間煮込み、素材の形も味も溶け合う。どんな食材を入れても、最後には「ガンボの味」に収束していく――。
そんなガンボに、私は日本の自民党政治を重ね合わせて考えることがあります。まさに大鍋型の"包括政党"。農政、道路、エネルギー......あらゆる分野に利害調整構造があり、それぞれが"食材"を持ち込み、妥協に妥協を重ね、「清濁(せいだく)あわせ呑んだ味」に仕上げる伝統芸があります。
この大鍋の中では、相反する要素すら共存しうる。例えば安倍政権時代の対中国政策。憲法改正も(少なくとも表向きは)視野に入れ、日米同盟を強化し、中国に対して強硬な外交姿勢を示しつつも、経済面では非常に深い依存関係を維持していました。
まさに"矛盾"ですが、自民党にとってはこれが利害の均衡を取るための自然な振る舞いなのです。自民党のこうした体質は、しばしば「鵺(ぬえ)のような」という表現をされることもあります。
それゆえに、時代ごとの連立相手や新興勢力も、最終的には"自民党味"に染まり、元の個性はかき消されていく。新興宗教団体である創価学会により設立され、平和主義を掲げ続けてきた公明党が、安全保障法制の採決時に(その判断の是非は別にして)明確な反対を表明しなかったことなどはその典型でしょう。
だからこそ、一部で語られている「日本型の右派ポピュリズムが自民党を乗っ取る」というシナリオーー例えば新興右派政党がキャスティングボードを握って政策の主導権を握るとか、自民党の右派政治家が離党して新たな勢力となり、政権をジャックするといったシナリオは、まだまだ現実的ではないと私は考えています。
トランプというトリックスターが共和党を事実上掌握したアメリカとは違い、日本ではどんな勢力も、政権に近づくとある程度"骨抜き"になる構造がいまだに維持されているのではないでしょうか。
こうした背景もあり、今勢いづく日本型ポピュリズムの賞味期限は「最長3年」と私は予測しています。
仮に右派ポピュリストが政権入りし、経済面で大胆な減税や金融緩和を打ち出しても、国債格下げや市場の反発があれば方針転換は避けられない。外交も、たとえ一議員としての対中姿勢が極めて強硬でも、経済的な依存関係の深さから、政府の実務段階では財界の圧力を受け、一定程度軟化せざるをえないはずです。
円安と物価高が暮らしを直撃する中、減税・財政出動ポピュリズムや右派的な主張に熱狂した人々の多くは、そんなに待ってはくれません。熱狂はやがて徒労感に変わり、「どうせ変わらない」という諦観が広がる可能性は高いでしょう。
結局、日本人と"お上(かみ)"との契約の主条項は、イデオロギーではなく経済、暮らしであると私は考えています。
右派ポピュリズムに飽きた頃、今度は手のひらを返すように、経済を支える移民やインバウンドへの賛同の声が相当な勢いで広がる可能性すらある、と予言しておきましょう。