サッカーをやっている人なら「早くここに出して!」とパスをもらいたかったタイミングでボールが来ない。試合後に「あそこで出してよ!」とチームメイトと口論になったことはないだろうか。
サッカーを指導している人なら、選手の動きの鈍さにやきもきして「よく見て!」「よく考えて!」と思わず声を荒げたことはないだろうか。この“あるある”を解消する画期的な取り組みがスタートしている。今、まさにサッカーの育成現場に、革命が起きるかもしれない。

 2025年4月、株式会社リコー(リコー)と公益社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)は、「Jリーグ未来育成パートナー契約」を締結。この提携の中心にあるのが、株式会社リコーが開発したウェアラブルデバイス「EMPATHLETE(エンパスリート)」だ。選手の視界を360度まるごとデータとして記録し、プレーヤーの主観視点でのプレー分析を可能にするこの“秘密兵器”は、いったいどのようにして生まれたのか。リコーで「EMPATHLETE」プロジェクトに携わる江口陽介さん、奥田龍生さん、齋藤昌宏さん、米田優さんの4名に話を聞いた。

■きっかけは「人類で一番キョロキョロしているのは誰か?」

「EMPATHLETE」は、同社が2013年に一般のコンシューマー向けとして世界初となる360度カメラ「RICOH THETA」を送り出してから着実に蓄積してきた技術を応用したもので、これを装着することで、選手がピッチ上で見ている景色、つまり「どのタイミングで、どこを見て、何を判断したのか」を映像として完全に記録できる夢のプロダクト。さらに、その映像はVRゴーグルで事後に追体験でき、まるでその選手になったかのような感覚でプレーを振り返ることが可能だ。

 この「EMPATHLETE」はリコーが実施する新規事業創出プログラム「TRIBUS(トライバス)」に応募したことがきっかけで開発がスタート。「TRIBUS」はリコーの社内外からイノベーターを募り、リコーグループの持つ技術、リソース、知見を最大限に活用して新たな価値創造につなげるプログラム。ワークプレイスやイメージング領域にとどまらず、社会全体の課題解決を目指すもので、単なる社内コンペの枠を超え、リコーのもつあらゆるアセットや技術を用いて事業を生み出し社会実装するという強い信念のもと、2019年にスタートした。


 最初の応募時点では、360度カメラをウェアラブルにすれば人間の視界を超えておもしろいよね!という着想から、今までになかった視界拡張ができるという自信のもと、「いろんなことに使えますよ、おもしろいでしょう!」というプレゼンをしてみたものの、あえなく落選…。メンバーで当時のことを振り返った際には、「何に使うのかという価値の部分が表現できていなかった」「技術起点でのモノの考え方になっていた」「なぜそれをリコーがやるのかという問いに対して応えられていなかった」という意見があったという。これらの反省を生かしてメンバーの間で議論を繰り返してきた。

「もともとは『THETA』をウェアラブルにしたらおもしろいんじゃないか、というアイデアからでした。360度見えるということを一番必要としているのは誰だろう、と考えました。様々な意見がありましたが、人類で一番キョロキョロしているのはサッカー選手だ、という結論に行き着いたんです」そう語るのは、自身もサッカープレーヤーであり、「EMPATHLETE」のプロジェクトメンバーでもある江口さん。この革新的なアイデアの根幹には、開発メンバーの純粋な探求心があったといっても過言ではないだろう。

 しかし、製品化への道のりは平坦ではなかった。一度は「TRIBUS」で落選し、「おもしろいだけではダメだ。何に使うのか、どんな価値があるのかを突き詰めなければならない」と壁にぶつかったプロジェクトチームの4名。ハードウェア開発はソフトウェア開発に比べ、初期投資やコストがかさみ、「投資と根気の両方が必要で、正直、新規事業向きではないという声もあった」とメンバーの齊藤さんは語る。それでもチームが再び挑戦し、プログラムへの採択を勝ち取れたのは、江口さんの「サッカーを変えたい」という揺るぎないパッションがあったからだという。 大企業にいながら、まるでスタートアップのように開発から営業まで一貫して顧客と向き合える。
メンバーの米田さんが「この働き方自体が大きなやりがいです」と語るように、チームの熱量と機動力が、前例のない挑戦を後押しした。

■「見ろ」「考えろ」…抽象的な指導からの解放

 プロジェクトチームが「EMPATHLETE」に託す未来は明確だ。それは、指導の現場から“モヤモヤ”をなくすこと。「『もっとまわりを見ろ』『考えてプレーしろ』と指導されても、選手は何をどうすればいいか分からない。逆に指導者も、選手の目線が分からないから具体的に教えられない。その“モヤモヤ”を、このデバイスで解消したいんです」(江口さん)

 これまで感覚で語られてきた“認知”や“判断”を可視化することで、選手は自分の課題を客観的に理解できる。指導者は選手の視界を追体験することで、より的確なアドバイスを送れるようになる。齋藤さんは、自身の父親としての視点でこう語る。「この技術でレベルアップした選手が世界で活躍する姿を、自分の子どもたちに見せたい。その夢を後押しできるなら、最高の仕事です」

■憧れのあの選手の目線で映像が流れる未来

「EMPATHLETE」の可能性は、サッカーの育成現場だけにとどまらない。奥田さんは、エンターテインメントとしての未来像を描く。

「最終的には、ワールドカップで選手がつけたカメラの映像が普通に中継されるような世の中になったら最高におもしろい。
審判の目線でもいい。ピッチの中からの視点でスポーツ観戦できたら、楽しみ方は無限に広がるはずです」

 選手の“視界”を記録し、共有する。開発チームの挑戦は、スポーツのプレーや指導、そして観戦のあり方までも根底から覆す可能性を秘めている。彼らが描く未来が現実となる日は、そう遠くないかもしれない。


【実際の映像】ピッチ上での選手の視野を360度映像で追体験



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