兵庫県のJR加古川駅のストリートピアノが2023年4月30日に廃止されることになりました。
海外と日本とでは明らかに違う「空気感」
もともとストリートピアノは2008年にイギリスの“Play Me, I’m Yours”という活動から始まりました。見知らぬ人同士が知り合うきっかけとして音楽とピアノを活用したのです。こうしたパブリックスペースのゆるやかな雰囲気が共感を呼び、日本でも街中にピアノを設置する動きが見られるようになりました。しかし、YouTubeなどの動画でピアノの腕自慢が出現しだしたことで状況は一変。時間をかけて撮影機材の設置をしては一人でピアノを独占し続ける状況が当たり前になり、各地で問題になっているとの目撃談もあります。
バズり目的の利用者が増えたことでパブリックスペースとしての価値を失い、近年では無料のアトラクション程度の意味合いしかなくなってしまいました。今回の加古川は象徴的なケースなのだと思います。
以前から筆者は日本のストリートピアノ文化に違和感を感じていました。NHK-BSの『駅ピアノ』、『空港ピアノ』、『街角ピアノ』をコンプリートするマニアとして言うならば、海外と日本とでは明らかに空気感が違う。もっと言えば日本のシリーズはつまらないのです。
一体何が原因なのでしょうか?
コミュニケーションのない「日本のストリートピアノ」
まず、日本のストリートピアノには“他者”が存在しません。確かに見物人はいるのだけど、そこで演奏者との間に何らかのコミュニケーションはほぼ発生しない。譜面や機材を持ち込んで練習の成果を披露する人と、その“作業”をただ見守る人がいるのみです。演奏が終わってもまばらな拍手があればいい方。シーンとした中、まごまごとピアノを後にする光景ばかりで、余韻がありません。言葉は悪いかも知れませんが、“用を足しに来た”という雰囲気なのですね。
一方、海外のストリートピアノには意外性があります。ロンドンのパンクラス駅の回では、ベートーヴェンの「歓喜の歌」をダウン症の女の子とカジュアルなアレンジで連弾する男性が印象に残りました。
女の子は好きなように鍵盤を叩くだけなのですが、男性はそれを受け入れて“いいよ、いいよ。その調子”と応援して弾き続ける。演奏が終わると、駅中に響き渡るほどの大きな音でハイタッチ。ストリートピアノの原点である公共空間の精神が最もよく現れているシーンでした。
日本のストリートピアノには「グルーヴ」が生まれない
だからピアノの設置場所が気になってしまいます。日本の場合は通行人の邪魔にならない場所にあることが多いからです。実際、駅の利用者とピアノ奏者が交わることはなく、壁で区切られているわけではないのに個室のように閉じたムードを醸し出していたのです。
それ以外の場所でも、日本では“ここで弾いてください”と規制線を張ったような設置が多いのでグルーヴが生まれません。
確かに迷惑にならないような配慮は必要なのでしょう。加古川のケースも駅の利用者からの苦情がきっかけでした。それでも何らかの志を持ってピアノという“巨大な異物”を置くと決めた以上は、配慮を上回る理想を貫いてもいいのではないかとも感じるのですね。
雑多な環境にあるピアノだからこそ生まれたシーンとして、ノルウェーのオスロ空港の回は忘れられません。
「ならず者」(イーグルス)を静かに弾き語りするドイツ人教師のそばを通り過ぎようとしながらも思わず聞き入ってしまった若者の姿。人通りのノイズに紛れ込んだ音楽が、いつの間にか人の足を止める。耳を澄ます瞬間、不意に生まれる儚いコミュニティがそこにはありました。
それこそがストリートピアノの醍醐味なのだとしたら、日本の場合多くはそれを端から放棄してしまっていると言えるのではないでしょうか。
日本のストリートピアノは“音楽”というより…
もっとも、杓子定規になってしまう理由は管理者にだけあるのではありません。雰囲気も何もあったものではない。当然見ず知らずの人同士の味わい深い会話など生まれるはずもありません。“目立たない端っこの方でやってください”となってしまうのも仕方ないところでしょう。
明らかな規範意識の欠如が見られた加古川のケースはともかく、日本のストリートピアノが根付かない理由は、音楽受容がまだまだ未熟であることにあるのではないかと思うのです。
そして、音楽をはじめとした芸術に触れることは、得体の知れない他者を理解しようとする意志を必要とします。
これもまた、パブリックスペースを成立させる上で欠かせない要素なのでしょう。
文/石黒隆之
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4