現在は、主演を務める映画『BAUS 映画から船出した映画館』が公開中。1925年、映画館「井の頭会館」の名ではじまり、2014年に惜しまれつつ閉館した「吉祥寺バウスシアター」と、そこを守り続けた家族をめぐる物語だ。
映画に造詣が深いことで知られている染谷さんは、映画や演劇など文化的な拠点として東京・吉祥寺で長年愛されてきた「吉祥寺バウスシアター」に10代の頃から通ってきた。
2022年に亡くなった名匠・青山真治監督(『EUREKA ユリイカ』など)が企画してきた同作は、青山監督の命日である3月21日から公開スタート。プロデューサーから「青山の呪いに乗っからないか?」とオファーを受けたという染谷さんに話を聞いた。
最初は「自分でいいのかな」と不安も
――「井の頭会館」の社長になったサネオを演じましたが、染谷さんは物語の舞台である吉祥寺バウスシアターにもともと通われていたそうですね。染谷将太(以下、染谷):自分としてとても個人的な思い入れがある場所ですし、青山監督のこともそうです。自分と近いものを感じる作品だったので、最初は不安というか、「自分でいいのかな」と思いました。
でもプロデューサーの樋口泰人さんに、「これは青山の呪いです。その呪いに乗っからないか?」と言われて。自分が呼んでもらっているのに、ここでやれなかったら絶対に後悔すると思って受けました。
それに、青山さんの脚本から、甫木元くんが手を加えた脚本をいただいたときに、ちゃんと甫木元くんの映画にもなっていたので、シンプルにこの作品に関われる喜びに浸りながら現場に入ることができました。
※青山監督に見いだされて映画の世界に入った甫木元監督が、引き継ぐ形で脚本を完成させ、監督を務めた。
実はまだ、青山さんが旅立った感じがしていない

染谷:そうですね。実は、青山さんが旅立った感じがあまりしていないと言いますか。なんですかね。また酔っぱらって、いつ夜中に電話がかかってきてもおかしくないような感じが、いまだにあるのが正直なところなんです。
でも実際にはこの世にいないので……。でも、青山さん亡きいま、青山さんが書いたセリフを、またカメラの前で言えたというのは、自分にとって純粋にすごく嬉しいことなので。
――そうですね。
染谷:ゴールデン街に行ったらいそうな感じがするんですよ(笑)。それって、自分が勝手にそう思っているというのもありますけど、青山さんという方が、もともと持っていた空気というか、常に漂っている、漂流している魅力を持った人だったからなのかなと。
吉祥寺バウスシアターの思い出

染谷:僕は、作品でいうと自分が作った自主映画をかけていただいたことがすごく思い出に残っていますね。
10代のころにさかのぼると、毎回、爆音映画祭のあとに屋上で打ち上げのバーベキューをするんです。映画祭とは関係ない人もまざってたりして。映画をやっている人から、音楽をやっている人、これから映画を志そうとしている人、本当にいろんな人が一堂に会して、面白い場でした。
――吉祥寺バウスシアターは、本当にユニークな劇場でした。
染谷:いろんな文化が入り混じっていたんだなと。10代のときにその中にいたときには、「とにかく面白い大人たちがいっぱいいるな」ということだけで、そのすごさに気づききれていなかったのですが、本当に刺激的な場所だったんだなと思います。
コロナ禍で仕事がストップしたとき、エンタメに救われた

染谷:もし自分が役者をできなくなったら、殺されたも同然という気持ちになると思います。
――コロナ禍の際にストップする経験はされたと思います。
染谷:ちょうどドラマの途中で止まりました。なので「終わらせちゃいけないものがある」という中にいました。だから逆にすがる気持ちだったと思います。そこに戻れるという希望を持って過ごしていたと思いますね。
それに、その間、配信の映画やドラマをすごく見て、自分が携わっているエンタメという仕事によって、自分が救われたので、また世の中が動き出す未来が来たときに、もっと頑張れる気がするという気持ちが強かった気がします。
映画という概念はなくならない

染谷:正直、どういうふうに感じればいいのかも、ちょっと分からないくらい色んな動きがありますよね。「映画」ということでいえば、映画という概念はなくならないと思っています。それが決して映画館でかかっていなくても、です。
たとえば今は、映画館でちょっと上映して、配信に移るという作品もありますが、それも映画だと思えば映画ですし。
――はい。
染谷:AIというものは、自分の知っている知識の範囲では、ゼロから1にはできないはずなんです。ゼロから1にするのは人間がやらなければいけない。
じゃあ、ゼロから1を作るってなんだろうと思った時、AI関係なしに、お芝居をするという意味で立ち返ってみても、1を膨らますのではなく、ゼロから1ということをしていかなければいけない。そうしないと、自分はきっと残っていけないだろうなと、漠然と思ったりします。
役者業も、じわじわといろんな変化はありそう

染谷:ありますよ。漠然とですけどね。技術があれば、顔だって変えられるし、危険なスタントもできるし。技術が変わっていけば、自分たちのやることも、急に大きく変わることはなくても、じわじわといろんな変化はありそうだなと思ったりはします。
――本作にも「トーキー」の登場が描かれていましたが、映画は新しいことを取り込んできた文化でもあります。
染谷:映画って、何かの規定を満たしたら映画という印が押されるわけでもない。「これは映画だ」と言ったらそれはきっと映画なんだと思います。逆に観た人が「こんなの映画じゃない」と言えば、その人の中ではそれは映画ではないんだろうと思います。
先ほども「映画という概念はなくならない」とお伝えしましたが、それが全てで、形が変わっても、この先も「これは映画だね」というものが続いていくのかなと思っています。
時代を感じさせる劇場での撮影

染谷:前半で舞台となる劇場は、長野に上田ある上田映劇というところをお借りしていたんですが、本当にとても心地よかったんです。ずっと劇場にいたんですけど、スタンバイ中も劇場の座席にみんなで座ってました。
すごく幸せな空間で、本当にステキなスタッフ、キャストのみなさんと、一緒に時間を過ごせて、楽しく幸せな時間でした。
――言われてみると、たしかに上田映劇でした。とてもステキな映像でしたが、同時に、上田映劇のロケ撮影はよく耳にしますので(『浅草キッド』など)、あのステキな空間はそんなに残っていないのだろうなと切なさも覚えます。
染谷:本当になかなかないですよね。
「染谷将太」を作ってきた「映画館に行く」という行為
――「映画という概念」のお話をしていただきましたが、染谷さんが思う、映画館で映画を観ることの醍醐味を最後にお聞かせください。染谷:そのために足を運ぶというのが、自分はとても好きなんです。
そのためにその町に行って、そのためにその駅で降りる。ひとつの映画を観るためにいろんな通過点があって、本当に見ず知らずの方々と一緒に、映画をその場で共有して、またそこからそれぞれの場所へと帰っていく。
そこに出かけていかないと体験できないのが劇場での映画体験。その道中すべてが好きです。自分の形成はそこから始まっているといえるくらいです。あと、映画を観た帰り道の景色って、その映画によって違って観えたりしますよね。
――それはありますね。
染谷:その映画を観たあとに誰かと会ったりとか、そういう前後の経験体験も含めて、すべてが劇場に行くことの醍醐味だと思いますし、そうしたプログラムが、生活の中に入るということが、すごく贅沢で価値があることだなと思います。
<取材・文・撮影/望月ふみ スタイリスト/林道雄 ヘアメイク/光野ひとみ>
【望月ふみ】
ケーブルテレビガイド誌の編集を経てフリーランスに。映画周辺のインタビュー取材を軸に、テレビドラマや芝居など、エンタメ系の記事を雑誌やWEBに執筆している。親類縁者で唯一の映画好きとして育った突然変異。X(旧Twitter):@mochi_fumi