16年ぶりのライブ復帰も…

 中森明菜が16年ぶりにライブ復帰しました。4月19、20日に大分県で開催された『ジゴロック2025~大分“地獄極楽”ROCK FESTIVAL~』に出演し、小室哲哉とのコラボで「愛 撫」や「TATTOO」などのヒット曲を披露しました。年末に向け、紅白への待望論もまた加熱しそうです。


 しかし、そこには一抹の不安もあります。ニュース映像やネットに上がっている動画を見ると、あれ?という感じだったからです。確かに、復帰そのものは喜ばしいことです。けれども、いまの盛り上がり方は、もともとのネームバリュー、そして不利益を被った過去に対する同情的なエールによるものであることは否めません。

 音楽的な充実度をよそに、サイドストーリーが復活の期待値を高めていることは、果たしていまの中森明菜にとってプラスになるのでしょうか?

中森明菜の歌はどう変化したのか

 改めて今回のパフォーマンスを見ると、かつての鋭さやきらめきはありません。音程は総じてフラットし、リズムにも乗り遅れている。頭で思い描いたものと、実際の発声とのズレから生じる重さがある。同世代の歌手のことを思えば、年齢的な衰えというには早すぎます。むしろ、単純に歌に関わる体の動きがうまく連動していない印象なのです。

 昨年話題を呼んだ自身のヒット曲のジャズアレンジも、そうした事情からだったのでしょう。しかしながら、それは成熟したシンガーの落ち着きを際立たせるよりも、脆弱さを壊さないための予防的措置のように聞こえました。

 現状のまま本格復帰をしたとしても、思い入れのあるファンでもない限り、受け入れにくい状況にあるのではないか。それが、率直な感想です。


中森明菜のジャズアレンジに感じた違和感

 とはいえ、だからこそ、いまの中森明菜は全く違う方法で輝くのではないか、とも感じました。どのようなアレンジでもかつてのヒット曲を歌うことが難しいのであれば、新たに生まれ変わった59歳の歌手として作り変えてしまう。つまり、日本のポップス、歌謡曲の概念からあえて外れてみたらどうだろうと思うのです。

 たとえば、晩年のマリアンヌ・フェイスフルやレナード・コーエンのように、語り、言葉、詞に重きを置いて、十分に空間を設けたサウンドと演奏にしてみるとか。朗々と歌えないことを逆手に取って武器にする。そういう音楽を追求できる可能性があるということです。

 ジゴロックのパフォーマンスを見る限り、中森明菜に“うた”が戻ってくるとは考えにくい。にもかかわらず、かつてのメロディを歌っていることが困難を生じさせているのです。だとすれば、外側だけでなく、中身も入れ替える必要が出てきます。

 年齢によって似合う色やシルエットがあるように、音楽にもその時々でふさわしい様式がある。それはアイドル歌謡をジャズ(っぽく)外側だけ改装したところで修正できるものではありません。むしろ、外観だけ成熟させたかのように細工すればするほど、沈殿した若さが内部で癒着して、引き剥がせない違和感として残るのですね。

 筆者が中森明菜のジャズアレンジに感じた違和感とは、この若さを無理やり取り除こうとすることで発症する鈍痛のようなものでした。


いっそのことまるっきり違った中森明菜を見てみたい

 
 もし本格的に復帰をするのなら、多くのファンはかつての大ヒット曲を聞きたがるでしょう。自然なことです。けれども、それは太田裕美の「木綿のハンカチーフ」のように、決してキーもアレンジも変えないという強力な誓いと実行できるコンディションがあってこそ叶うことなのではないでしょうか。

 それができずに消化不良を起こすぐらいならば、いっそのことまるっきり違った中森明菜を見てみたい。

 “あの”中森明菜が復活しないのであれば、“いまの”中森明菜で再デビューしてしまえばいい。

 それが、歌えないことの功名だと思うのです。

文/石黒隆之

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
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