「今となっては笑い話かもしれませんが。あんなの、もう一生分の不運を使い果たした気がします」
そう語るのは、都内で営業職として働く三村詩織さん(34才・仮名)だ。
満席の高速バスで、さっそく嫌な予感が
彼女は昨年、出張のために利用した高速バスで、思わぬ体験をした。「普通、高速バスって男性と女性が隣にならないように、自動で席を調整してくれるんですよ。女性専用エリアがあることも多いし」
利用したのは、東京発・大阪行きの深夜バスだ。車両は3列シートで、間に通路を挟むゆったりした配置だったが、席につくと、なぜか隣に男性が座ってきた。
「満席だったので、他に移動もできず……バスのスタッフさんに言っても『申し訳ありませんが、今回はこれ以上の調整が難しいんです』って言われて。その時点でちょっと嫌な予感はしてたんですけどね
隣の男性がブーツを脱ぐと、とんでもない異臭が
その予感は、的中した。「乗ってすぐは何もなかったんです。ただ、出発して30分くらい経ったころかな。隣の男性が、ブーツを脱ぎはじめたんです」
その日は雨だった。足元は濡れており、男性は黒の革製ブーツを履いていた。
「まあ、長時間乗るし、靴を脱ぎたくなる気持ちは分かりますよ。でもね、その直後、空気が変わったんです。
詩織さんは思わずマスクの中で鼻をつまんだ。しかし、そんな工夫ではとても耐えられないニオイが、次第に座席一帯に広がっていったという。
「もう、呼吸したくないって初めて思いました。足のニオイって言っても、ちょっとした汗のニオイとかじゃないんですよ。なんていうか、雑菌を煮詰めて発酵させたような、酸っぱいような、生乾きの洗濯物をさらにこじらせたような……徐々に目まで痛くなってきました……」
詩織さんの表現は生々しく、聞いているこちらの鼻の奥まで疼いてくるほどだ。しかも、バスは深夜便。途中下車することもできない逃げ場のない密閉空間で、数時間にわたる地獄の同乗が約束されている。
あらゆる手を尽くすも、まったく歯が立たず
「本人は気づいてるのかわかりません。何事もないように眠り始めてたので、たぶん無自覚だったんだと思います」詩織さんはストールを顔に巻きつけたり、手持ちの香水をマスクに吹きかけたりとあらゆる手を尽くしたものの、強烈な臭気にはまったく歯が立たなかったという。
「8時間ほど耐え抜き、大阪に着いたとき、心底ホッとしました。もはや出張どうこうより、とにかくあの場から脱したかったんです。一睡もできなかったのは大誤算でしたけど……」
ただ、詩織さんの災難は、それだけで終わらなかった。
出張を終えた、詩織さんは大阪駅近くの高速バス乗り場へ向かい、東京行きの最終便に乗車した。
「正直、行きがあんなだったから、新幹線にしようかと迷ったんです。でも出張の経費的に難しくて。まさか、また同じようなことにはならないだろうって思ってたんですよ」
なんと、帰りのバスにも足クサ男が…
チケットを確認し、指定された席へ向かった詩織さん。そこで、彼女は言葉を失った。「いたんです。行きのバスで隣だったあの男性が。今度は通路を挟んで向こう側に座ってました。信じられませんでした」
この確率はどれほどのものか。おそらく、宝くじの高額当選並みの偶然だろうか。しかし、その嬉しくもない奇跡は、彼女にとって完全に不運の極みだった。
発車して30分ほど経ったころ、前回と同じタイミングで、またしても彼はブーツを脱いだ。しかも、前日と同じ靴のように見えたという。
「まさか、って思ってたのに、そのまさかが現実になるって、けっこうダメージでかいですよ」
通路を挟んだ距離があったにもかかわらず、ニオイはしっかり届いてきた。詩織さんは再びマスクを二重に重ね、香水のキャップを何度も開け閉めしながら、耐え忍んだ。
「もう、テロですよね。精神が崩壊しそうになりますから。法律でどうにかしてほしいですよ」
今でもフラッシュバックすることがある
東京に戻った詩織さんは、友人たちにこの話をした。「そんな偶然あるわけない」「作り話じゃないの?」と笑われ、共感してもらえなかったようだ。
「たまに、新幹線の中で豚まんを食べた人に攻撃する人っているじゃないですか。大袈裟だなって思ってたけど、当事者になれば分かります。ニオイは、防ぐのが本当に難しいんです。私は今でも、あのブーツのビジュアルがフラッシュバックしますから」
一見、些細なことでも、それが周囲の人にどんな影響を与えるか分からない。高速バスという密室では、なおさらのことだ。
我々も靴を脱ぐ前にひと呼吸おくべきかもしれない。
<TEXT/山田ぱんつ>