今回は前回に引き続き、早稲田大学卒業の元パチプロ、本多亮介さん(仮名・47歳)が歩んできた壮絶な人生の後編をお届けする。
同級生の仕事の愚痴で
早稲田卒の経歴を持ちながら、就職せずパチスロの道を突き進んだ本多亮介さん。仲間と情報を共有しながらスロプロ生活を謳歌するも、心の奥には後ろめたさもあったという。「パチスロ仲間もいましたけど、所詮はパチ屋で知り合った程度の仲。酒飲んでもお互いの素性はほとんど話さなかったですし、そもそも名前も本名だったのかなんてわかりません。大学の同期とも年に何回か飲みに行ったりしてましたけど、卒業してすぐの頃なんかは飲むと『こんな会社もう辞める!オレも好きなことやって生きる!』って言ってたのに、2年目になると『海外に転勤になるかもしれないから、英会話の勉強やんなきゃいけなくて休みが潰れる』とか『ほぼ毎日終電でキツいよ』という話を聞きまして……。『“楽しそうなキツさ”だな』って思うようになり、どんどん後ろめたい気持ちになっていきました」
父親のガン発覚とスロプロ稼業の終焉
だが、スロプロ生活が5年ほど続いたある日、母親からの電話で本多さんの人生は大きく変わっていくことになる。「27歳のとき、久しぶりに母親から電話がありまして、第一声が『父ちゃんがガンになった』って……。ビックリしました。それを機に母親から『頼むから実家に戻ってほしい』と言われました。オマケに子供の頃からずっと可愛がってくれてた専務のおっちゃんからも『頼むから社長の後継いでくれよ』って頭下げられてしまって、こりゃもう潮時だなと……。でも、なんだか『これで落ち着ける』という気持ちになってホッとしたんですよね。そこから少しプロを続けましたが、30になる前に実家に帰って働き始めました」
そして、30代半ばで父親が亡くなり、それを機に社長に就任したという本多さん。
「自分なんて2代目で、将来が約束されてる人生を好き勝手やってきただけなんで、この記事を読んでる人からすれば『ふざけんな』って思うかもしれませんね。でも、生まれたときから将来を決められてるのって、正直それはそれでツラいんですよ。そんなもん無視すりゃイイじゃんって思うかもしれませんし、実際に自分は逃げてきましたが、それでも親の存在ってやっぱりデカい。いくら反発してたとはいえ、やっぱ継がなきゃいけないんだよなぁって、子供の頃から心のどっかにずっと引っかかってたんです。そのプレッシャーというか重しが本当にイヤでしたね」
カネさえ稼げば自由に生きていける

「好きなことに没頭する時間は大切だと思います。好き勝手生きたあの時間で学んだことは、食い扶持を作れば、カネを稼げば基本的に人は干渉されず、自由に生きていけるということ。学費も家賃も自分で出してきて、親のカネは1円だってもらったことはない。だから、父親も強く言えなかったんだろうなと思います」
父親と家業の呪縛から逃げるように東京へ行き、スロプロになった本多さん。子供たちには「好きに生きろ」が口癖だというが、「でも、中学生の長男が高校入学したらバイトで手伝ってもいい?って最近聞いてくるんですけど、やっぱなんか嬉しいですよね」とはにかんでいた。
思い出の一台は今も人気のディスクアップ
最後にスロプロ時代の「思い出の一台」を聞いた。「うーん……ビーマックスと言いたいところだけど、初代ディスクアップですかね。
リバイバル機も登場して、新たな世代のファンを獲得したディスクアップ。本多さんも何度か打ったことがあるそうだ。
「最近はもうほとんど打ってないけど、4号機のリバイバル機が出たら打つようにしてます。もちろん新しいディスクアップも打ちました。あれは完成度高くて、久しぶりに打ち込んだくらい面白かったです。一度、ウチの会社の若い連中と一緒に打ちにいったら、自分の打ち方を見て、みんな目を丸くしてビックリしてまして。あれ以来、若い連中が他の社員たちに『社長の目押しがすげぇ!』って言いふらしたお陰で、最近は連れスロに誘われるようになりましたよ(笑)」
昔取った杵柄もこんな形で役に立つとは想像もできなかった、と笑顔で話す本多さんであった。
文/谷本ススム
【谷本ススム】
グルメ、カルチャー、ギャンブルまで、面白いと思ったらとことん突っ走って取材するフットワークの軽さが売り。業界紙、週刊誌を経て、気がつけば今に至る40代ライター