父が「山に行く」と言い出した理由は…
しろしさんは人生の大半を北海道札幌市で過ごした。幼い頃の記憶はトラウマそのものだ。「8歳くらいまでの記憶では、父は働かずに家にいることが多かったと思います。ただ、それからほどなくして仕事に行くようになりました。ある日、仕事帰りの父がぽんとカバンを置いて、『今から山に行くぞ』と言ったんです。そこで『一緒に死のう』と言いはじめ……。私は何度か嫌だと言いましたが、『お母さんも一緒だから怖くないぞ』と。
子どもながらに『何とか意識を現実に向けなくては』と思って、テレビの音量を上げて父の目を覚まさせるように努めました。結局、私が何度か拒絶するうちに、決行しなくなりましたが」
“父の友人”を見たことがない
当然、暴力も日常茶飯事だったという。「保育園のときから、父が母に向かってものを投げるなどの光景は、当たり前に見てきました。私も就学以降は、殴られる、蹴られる、踏まれるを頻回に経験しました。
父はコミュニケーションに難がある人でした。
一時が万事そんな感じなので、仕事をしても長続きせずにすぐに辞めることを繰り返していました。中3のとき、家にいる父に何気なく『今日家にいるの?』と聞くと、『家にいてはいかんのか』と言って急に怒り出したんです。キッチンに向かった父が包丁を取り出して、追いかけてきたときは恐怖を感じました」
包丁を持って追いかけられる恐怖のさなかでも、しろしさんは父親のことを常に考えている。
「やろうと思えば玄関から外に出ることは用意でした。しかしそれでは通行人に見られてしまい、父は警察に連れて行かれるでしょう。服役することになったら、受刑者の方や刑務官の方とのコミュニケーションができず、どんなことになるかわかりません。そう考えて、私は部屋にほうへ引き返しました。父は私を隅に追い詰めて、包丁を振りかざす素振りを見せました。恐怖で泣きながら『ごめんなさい』と繰り返し謝ると、父は『もう言うなよ』と言って戻っていきました」
母が面と向かって抗議しないのは…
父親の振る舞いは目に余るが、家庭内でここまで横暴になった理由も気になる。それについて、しろしさんの推論はこうだ。「私が生まれる前、自営業でそこそこの収入があったようです。おそらく母はいろいろな面で助けてもらった恩があって、父に対して強く言えないのではないでしょうか。
父をなだめることはしても、面と向かって抗議をしたことはないですね。どちらかと言えば、母は私に対して『父とうまくやってほしい』と考えていると思います。家庭内では、絶対に父を怒らせてはいけない空気がありましたから、幼少期ですでに『今話しかけていいかどうか』を考えるようにはなっていました。
そもそも、母が虐待についてはっきり認識したのは中3以降だと思います。父の性格を理解していた母は、仕事で得られる収入に浮き沈みがあることを知っていましたから、長時間働いていました。だからほとんと家にはおらず、現場を目撃しなかったこともあるかもしれません」
引きこもっていた6年間は「父の足音が恐怖」
高校卒業後、うつ病を発症したしろしさんは、6年近くもの間、引きこもりになってしまう。「高校までは頑張っていましたが、突然糸が切れたようにぷつりと気が抜けていくのがわかりました。バスや地下鉄に乗るとき、美容室や病院、買い物のレジに並ぶとき、お風呂に入るときなどに、過呼吸を起こすようになりました。ベッドから動けず、『死んでしまうかもしれない』と思ったのを覚えています。
一方で、そんな状態でも家のなかで聞く父の足音は恐怖でした。その恐怖から不眠症になり、心身はさらに摩耗していきました。
かねてから憧れていた名古屋市のサポート校に入るため、しろしさんは友人を頼って名古屋市への転居を決めた。この決断について、父親はやや冷笑的だったという。
「父は『どうせ長く続かない』と言っていました。新天地に適応できずにすぐに戻ってくると思っていたのでしょう」
父の予想とは裏腹に名古屋行きは奏功し、しろしさんは社会復帰を果たすことができた。だがまったく別の角度からの災いに見舞われることになる。
「名古屋にいた25歳のときに、肺腺がんを患ってしまったんです」
自身ががんだと伝えた際、両親の反応は…
これまでの虐待の事実もさることながら、病気の報告を受けた両親の反応に戦慄する。「もちろん病気のことは両親に伝えました。ただ、反応はなかったですね。『へぇ』くらいなもので。名古屋でひとりで入院して、ひとりで退院しました。母は内心では心配していたようにも思いますが、父を家にひとりにしたら身の回りのことが何もできませんし、そもそも父は長距離の歩行ができませんので、両親が見舞いに来ることはありませんでした」
現在、がんを患っている父親は、たびたびこんな文句を漏らすという。
「父は、『なんでワシがこんな大変な病気にならないといかんのか。
衰えた父を見て「理解できるのは自分だけ」と…

「父はたぶん、誰からも理解されないと思うんです。ほんの些細なコミュニケーションもできないので、たとえば近所のコンビニにも行きたがらず、『お前が行け』と言います。そんな父のことを理解できるのは自分だけではないか、という思いはあります。ただ、名古屋に行って精神的にだいぶ快復したからこそ、こう思えているのはわかっています。社会復帰をして精神状態が良くなった私に引き換え、父はどんどん衰えていきました。『今なら支えられるのでないか』という考えになったのは、自分に少し余裕が出てきてからだと思います」
名古屋市にいたころは、虐待を受けた人や家出中の人たちに接する活動をしていたという、しろしさん。もしも自分と似た境遇の人に出会ったとしたら、何と言葉をかけるのか。
「私と同じように家庭に留まる選択は勧めないですね。
取材の最後、しろしさんは「ごくたまに、過去のことを話す父は優しく思える」と話した。恐怖で支配しつつも優しさを差し色のように操ることで逃れられない“絆”を作る。囚われれば決して逃れることのできない籠のなかで、今現在もしろしさんはもがいて答えを模索している。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki