佐野海舟の「日本代表復帰」に批判殺到

性的暴行で逮捕された佐野海舟の「日本代表復帰」に批判が殺到…...の画像はこちら >>
 5月23日にサッカー日本代表のメンバーが発表されました。昨年7月中旬に不同意性交の容疑で逮捕された佐野海舟選手が含まれていたことが議論を呼んでいます。

 一連の報道では、佐野選手は幼馴染の男性2人と共謀して一人の女性に性的暴行を加えたと伝えられています。
その後、昨年7月下旬に釈放され、そして昨年8月上旬に不起訴処分となったことで、法的には一区切りがついたことになります。

 しかし、ネット上ではこのサッカー協会の判断に賛否が大きく分かれているのです。すでに不起訴となっているにもかかわらず、なぜここまで大きな議論になっているのでしょうか? 問われているのは、単なる“法的な可否”ではなく、スポーツと社会の接点における判断のあり方です。

 代表選出に際して、佐野選手は謝罪会見を開き、次のように述べました。<自分に対する賛否はあると思っていますし、日本のサッカーのために戦うしかないと思っているので、昨年の自分の行動によってたくさんの方々にご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。サッカー面は言動行動で自分にできることを考えて、社会に貢献し続けたいと思っています>(『FOOTBALL ZONE』 2025年5月28日)と語り、プレーで罪を償っていくとの思いを表明しています。

森保監督「ミスを犯した選手をサッカー界から葬り去るのか」

 日本代表の森保一監督も、<チームの一員を家族と考えた時に、指導者として選手と向き合う中、1人の人間としてミスを犯した選手をそのまま社会から放任するのか、サッカー界から葬り去るのかということに関しては、再チャレンジする道を家族として与えることの方がいいのではないか>(『日刊スポーツ』 2025年5月23日)と、迷いつつも佐野選手を招集するに至った経緯を説明しました。

 過去にも伊東純也選手に同様の性加害報道があった際、伊東選手を代表に招集できない期間があったのは記憶に新しいところです。そのときにも世論が大きく分かれましたが、今回はそれ以上かもしれません。

 まず消極的ながらも佐野選手の代表復帰を支持する意見としては、“人前に出て謝罪会見をしただけでも立派”とか“思うところはあるが、法的には問題ない状況なのだからあとはプレーで示してほしい”といった声がありました。主にYahooニュース上の記事へのコメントで見られる反応です。

 一方、「X」などのSNSでは否定的な意見が優勢です。特徴的なのは、佐野選手に対する批判よりも、“ミスを犯した選手を葬り去ってもよいのか”との問題提起をした森保監督を疑問視する声が多かったことです。
不同意性交や性的暴行に対する認識が甘すぎるのではないか、という見方ですね。

 森保監督をはじめ、日本サッカー協会としては、伊東純也選手が復帰した前例もあるので、佐野選手の選出のハードルが下がったと考えたのかもしれません。しかしながら、奇しくも森保監督自身の発言により、世論の怒りが再点火してしまった格好です。

「ミス」発言に感じる違和感

 確かに、事件の性質上、佐野選手が現場でどのような役割を果たし、具体的に何をしたのかは明らかになっていません。そのため代表復帰の是非を断定的に論じるのは難しい部分もあります。それ故に、一部のサッカーファンが“ふだんサッカーに興味のない人が批判している”と言いたくなる気持ちも、理解できなくはありません。

 だからこそ引っかかるのが、森保監督の発言なのです。森保監督は、選手の気持ちや生活に丁寧に寄り添い、そうすることで人心を掌握するタイプの指導者だと言われています。厳しくも寛容な視線が日本代表のファミリー的な一体感を生み、数々の躍進を生んでいることは確かです。

 けれども、それはあくまでもサッカー界、ピッチ上の話に限定された美徳だということは押さえておく必要があります。今回のようなケースでは、その森保監督の長所だけで、サッカーファン、関係者以外の理解を得ようと考えるのは、非常に苦しいのではないでしょうか。

 言うまでもなく、性暴力事件はスポーツを超えた社会的なトピックであり、それを議論するためにはスポーツの論理だけでは全く不十分だからです。

 森保監督が“一つのミスで選手のキャリアを台無しにしてもいいのか”と問いかけた背景には、サッカーの戦術や勝敗、そしてサッカーファミリーである佐野選手の人生のことしかない。
そこに、サッカーファン以外の多くの国民が違和感を感じているわけですね。

性暴力は「ミス」という言葉で済まされるものではない

 森保監督の言葉には、事件の被害者、そして性暴力という行為が社会全体に及ぼす深刻な影響や、その文脈における言葉選びの重要性について、十分に配慮がなされていなかったように思われます。報道の内容から、佐野選手の行為は計画性を伴うものであり、加害性が指摘されています。

 だとすれば、それは「ミス」という言葉で済まされるものではありません。「ミス」という言葉には、うっかりやってしまったとか、悪気はなかったなどのニュアンスが含まれます。けれども、「ミス」と表現することで、事件の重大性が相対化され、結果として性暴力の深刻さが軽視されかねない世論の土壌が出来上がってしまう恐れがあります。

 選手を預かる立場としての心情は理解できても、残念ながら視野が狭いと言わざるを得ません。

 当然、議論を呼ぶであろう佐野選手を選出した以上、自身の決断を肯定する言葉は必要になります。同時に、その言葉はサッカーファン以外の世間にも納得してもらえるほどに慎重に吟味されたものでなければなりません。

 そう考えると、“一つのミスでキャリアを奪い去ってもよいのか”と訴えた森保監督は、感情に傾き過ぎた結果、社会一般の目線から乖離してしまったように見えます。“一つのミスで”という言い方をしたこと自体が、実は森保監督にとっての最大のミスになってしまったのです。

 森保監督が佐野選手に見せた優しさの何割かでも事件の被害者に向けられていたならば――‐もう少し違った言葉になっていたはずです。


文/石黒隆之

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
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