このまま、日本で暮らし続けていけるのか——。物価高や円安、不安定な社会情勢の中で、日々の生活や将来に不安を抱える人は少なくない。

だが、そんな状況にただ流されるのではなく、自らの暮らしを根本から見直そうと動き出す人々もいる。大阪出身の牧野恵子さんも、その一人だ。

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2011年、東日本大震災をきっかけに家族とともに日本を離れ、現在はタイ北部・チェンマイで「NEO食堂(Neo Shokudou Aeeen Japanese Vegan)」という小さな食堂を営んでいる。

タイに移住した日本人女性が見つけた「豊かな暮らし」一軒家で家賃は約4万4000円、調味料や洗剤は“自家製”で
NEO食堂
牧野さんのこれまでの歩みと、食を通じた価値観の変化、そしてチェンマイで見つけた「地に足のついた暮らし」について話を伺った。

原点にある、祖母の質素な料理

タイに移住した日本人女性が見つけた「豊かな暮らし」一軒家で家賃は約4万4000円、調味料や洗剤は“自家製”で
人気のおばんざい盛り合わせ定食は350バーツ(約1500円)
「母を早くに亡くして、私を育ててくれたのは韓国・チェジュ島出身の祖母でした。祖母の料理は毎日同じようで、毎日違っていたんです。具が変わるスープに麦ごはん、それに漬物だけ。ものすごく質素だけど、不思議と飽きなかった。これが、今の私の料理の根っこにあります」

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自家製の調味料も販売する
10代の頃には洋食に惹かれた時期もあったというが、結局はこの原点に戻ってきた。牧野さんは豚や牛は食べず、植物性素材を中心にした自分なりの食のスタイルを確立してきた。

タイに移住した日本人女性が見つけた「豊かな暮らし」一軒家で家賃は約4万4000円、調味料や洗剤は“自家製”で
お客さんが必ず頼むという人気の酵素ジュース
「子どものアレルギーがきっかけで発酵調味料に興味を持ちました。時間をかけて丁寧に作ったものは、ちゃんと身体に届くんだと実感して。酵素ジュースや手作り味噌、麹、豆腐……全部に“発酵”の力を取り入れてます。
野菜はもともとあまり好きじゃなかったんですが(笑)、どうやったらおいしく食べられるか考えるうちに、自然と料理の工夫が深まっていったんです」

東日本大震災がもたらした転機

転機となったのは、2011年の東日本大震災。当時、ちょうど下の子が生まれたばかり。育児と将来への不安が重なり、「このままでいいのか」と考えるようになった。

「そんな中、旅行で訪れたタイで『ここならもっと自由に、柔らかく生きられるんじゃないか』と思ったんです。都会だけれど、少しソイ(小道)を入ると不思議と西成に似た空気があって、安心できたんですよね。最初はバンコクも考えたのですが、やっぱり都会すぎて、息が詰まりそうで……。気づけば子どもを連れてバックパックでチェンマイに来てました」

仕事も収入もない状態でのスタートだったが、「なぜか“なんとかなる”という根拠のない自信があった」と笑う。最初は子どもが現地の幼稚園を嫌がり、毎日泣いていたという。

「年中になるころには少しずつ言葉がわかるようになって、次第に元気に通うようになりました。サッカーを始めてからは学校が大好きになって、今ではスポーツ推薦で新しい中学校に通っているんです。すっかりタイ人のようですね(笑)」

豆腐作りから始まったチェンマイでの仕事

チェンマイでの仕事は、当初は飲食業ではなかった。こぶみかんを使ったシャンプーやスパイスミックスを美容室に卸すことからスタートし、やがて湧水を使ったミネラルウォーターの販売へと広がっていった。

「あるとき、タイの豆腐がおいしくないことに気づいて。日本から納豆菌を持ってきて、自分のミネラルウォーターで豆腐を作ってみたら、けっこういい感じだったんです。
それで豆腐屋を始めました」

豆腐を出品したチェンマイ初のデザインウィークで、ある老舗ホテルのオーナーの孫と出会った。老朽化したホテルを修繕する代わりに、その一部をワークショップとして利用できることに。そこが、牧野さんにとっての最初の「食堂兼豆腐屋」となった。

2015年、川沿いの古い倉庫をリノベーションして食堂をスタート。化学調味料は使わず、納豆も豆腐もすべて素材から手作り。また、食材については日本からの仕入れに頼らず、「あるものでどうにかする」という精神のもと、米や野菜は地元のものを活用している。

手作業で積み重ねる「NEO食堂」とタイ人スタッフとの関わり方

タイに移住した日本人女性が見つけた「豊かな暮らし」一軒家で家賃は約4万4000円、調味料や洗剤は“自家製”で
藁から手作りする納豆
2020年には新たに「NEO食堂」をオープン。現在ではミシュラン3年連続掲載の人気店となり、地元のタイ人を中心に多くの常連客が通っている。

「今のお店は家からすぐ。自然も豊かで、近くにオーガニック市場もあるんです。ちょうど“自分たちの拠点”が欲しかった時期で、友人に教えてもらった場所がピッタリだったんです。でも新築だったから、棚も冷蔵庫もサイズが合わなくて(笑)。テーブルは大工の友達に頼んで、椅子も手作りして。
そうやって、ここだけのサイズ感や空気を一つずつ作っていきました」

タイに移住した日本人女性が見つけた「豊かな暮らし」一軒家で家賃は約4万4000円、調味料や洗剤は“自家製”で
店の家具やテラス席はすべて手作り
日々の運営において、欠かせないのが現地スタッフの存在だ。これまでに50人以上のタイ人スタッフと関わってきたというが、日本との文化や価値観の違いはやはり大きいという。

「タイ人が悪いというわけではありません。ただ、育った環境や価値観が根本的に異なるので、まずは前提の理解が必要です。たとえば『今日で辞めます』と突然辞めてしまう人もいました」

チェンマイは温暖で、自然の恵みにあふれた土地。道ばたにはフルーツや食べられる葉があり、食いっぱぐれる心配が少ない。そうした背景もあり、生活に対する切迫感が薄く、“なんとなく働く”という姿勢で仕事が長く続かない。

「一方で、目的を持って頑張ろうとする人はしっかり働いてくれます。この仕事は感覚的な要素も多いので、勘のいい人でないと続けるのは難しいですね。食や色に興味がある人、実家で丁寧な食事をしてきた人は、比較的長く勤めてくれます。1年から3年ほど続けてくれる方もいますよ」

家賃は一軒家で1万バーツ(約4万4000円)

タイに移住した日本人女性が見つけた「豊かな暮らし」一軒家で家賃は約4万4000円、調味料や洗剤は“自家製”で
現在の住まいである一軒家のリビング
便利さに頼らず、自分の手で何かを作る経験は想像以上に大きな力になるという。藁から納豆を作り、うどんも手打ちで仕込む。
そのような手間ひまが暮らしの感覚を豊かにしていく。

「今の住まいも自分好みに家具を作り、自分好みに仕上げていった」と語る牧野さん。チェンマイでの生活費について聞いてみた。

「2ベッドルーム、2バスルーム、ガレージ付きの一軒家で家賃は月1万バーツ(約4万4000円)。食費は約8000バーツ(約3万5000円)ほどで、調味料も自家製のため購入品は少なく、まかないもあるので抑えられています」

タイに移住した日本人女性が見つけた「豊かな暮らし」一軒家で家賃は約4万4000円、調味料や洗剤は“自家製”で
自炊も既製品に頼らず、手作り調味料で工夫している
牧野さんの私生活もゼロウェイストやサステナブルを意識したものだ。

「米の研ぎ汁を発酵させて乳酸菌ウォーターにしたり、掃除に使ったり。重曹とお酢で掃除もできるし、洗剤を使わない暮らしって意外と心地いいんですよ」

現在はNEO食堂の近くに「AEEEN OMUSUBI」というおむすび屋をオープンし、今後は、“天むす”のおむすび屋をやってみたいという。さらに、冷凍うどんやカレーなど「NEO食堂」の人気メニューのレトルト化も構想中だ。

「私たちがやってることって、“続けること”なんです。“こういうやり方もあるよ”って提示し続けること。そこに価値があると思ってます。真似じゃなくて、“自分たちらしいことを、楽しく”っていうのが一番の軸ですね」

最後に、チェンマイという土地の魅力について尋ねた。


「空が広く、自然がすぐそばにある。バイクで移動する日々のなかで、気づけば空を見上げるようになりました。チェンマイは小さな町なので、あちこちに知り合いがいて、みんなによくしてもらえるんです。都市での暮らしでは得られなかった“心の余裕”が、ここにはありますね」

<取材・文/カワノアユミ>

【カワノアユミ】
東京都出身。20代を歌舞伎町で過ごす、元キャバ嬢ライター。現在はタイと日本を往復し、夜の街やタイに住む人を取材する海外短期滞在ライターとしても活動中。アジアの日本人キャバクラに潜入就職した著書『底辺キャバ嬢、アジアでナンバー1になる』(イーストプレス)が発売中。X(旧Twitter):@ayumikawano
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