だが、そんな状況にただ流されるのではなく、自らの暮らしを根本から見直そうと動き出す人々もいる。大阪出身の牧野恵子さんも、その一人だ。
2011年、東日本大震災をきっかけに家族とともに日本を離れ、現在はタイ北部・チェンマイで「NEO食堂(Neo Shokudou Aeeen Japanese Vegan)」という小さな食堂を営んでいる。

原点にある、祖母の質素な料理



東日本大震災がもたらした転機
転機となったのは、2011年の東日本大震災。当時、ちょうど下の子が生まれたばかり。育児と将来への不安が重なり、「このままでいいのか」と考えるようになった。「そんな中、旅行で訪れたタイで『ここならもっと自由に、柔らかく生きられるんじゃないか』と思ったんです。都会だけれど、少しソイ(小道)を入ると不思議と西成に似た空気があって、安心できたんですよね。最初はバンコクも考えたのですが、やっぱり都会すぎて、息が詰まりそうで……。気づけば子どもを連れてバックパックでチェンマイに来てました」
仕事も収入もない状態でのスタートだったが、「なぜか“なんとかなる”という根拠のない自信があった」と笑う。最初は子どもが現地の幼稚園を嫌がり、毎日泣いていたという。
「年中になるころには少しずつ言葉がわかるようになって、次第に元気に通うようになりました。サッカーを始めてからは学校が大好きになって、今ではスポーツ推薦で新しい中学校に通っているんです。すっかりタイ人のようですね(笑)」
豆腐作りから始まったチェンマイでの仕事
チェンマイでの仕事は、当初は飲食業ではなかった。こぶみかんを使ったシャンプーやスパイスミックスを美容室に卸すことからスタートし、やがて湧水を使ったミネラルウォーターの販売へと広がっていった。「あるとき、タイの豆腐がおいしくないことに気づいて。日本から納豆菌を持ってきて、自分のミネラルウォーターで豆腐を作ってみたら、けっこういい感じだったんです。
豆腐を出品したチェンマイ初のデザインウィークで、ある老舗ホテルのオーナーの孫と出会った。老朽化したホテルを修繕する代わりに、その一部をワークショップとして利用できることに。そこが、牧野さんにとっての最初の「食堂兼豆腐屋」となった。
2015年、川沿いの古い倉庫をリノベーションして食堂をスタート。化学調味料は使わず、納豆も豆腐もすべて素材から手作り。また、食材については日本からの仕入れに頼らず、「あるものでどうにかする」という精神のもと、米や野菜は地元のものを活用している。
手作業で積み重ねる「NEO食堂」とタイ人スタッフとの関わり方

「今のお店は家からすぐ。自然も豊かで、近くにオーガニック市場もあるんです。ちょうど“自分たちの拠点”が欲しかった時期で、友人に教えてもらった場所がピッタリだったんです。でも新築だったから、棚も冷蔵庫もサイズが合わなくて(笑)。テーブルは大工の友達に頼んで、椅子も手作りして。

「タイ人が悪いというわけではありません。ただ、育った環境や価値観が根本的に異なるので、まずは前提の理解が必要です。たとえば『今日で辞めます』と突然辞めてしまう人もいました」
チェンマイは温暖で、自然の恵みにあふれた土地。道ばたにはフルーツや食べられる葉があり、食いっぱぐれる心配が少ない。そうした背景もあり、生活に対する切迫感が薄く、“なんとなく働く”という姿勢で仕事が長く続かない。
「一方で、目的を持って頑張ろうとする人はしっかり働いてくれます。この仕事は感覚的な要素も多いので、勘のいい人でないと続けるのは難しいですね。食や色に興味がある人、実家で丁寧な食事をしてきた人は、比較的長く勤めてくれます。1年から3年ほど続けてくれる方もいますよ」
家賃は一軒家で1万バーツ(約4万4000円)

「今の住まいも自分好みに家具を作り、自分好みに仕上げていった」と語る牧野さん。チェンマイでの生活費について聞いてみた。
「2ベッドルーム、2バスルーム、ガレージ付きの一軒家で家賃は月1万バーツ(約4万4000円)。食費は約8000バーツ(約3万5000円)ほどで、調味料も自家製のため購入品は少なく、まかないもあるので抑えられています」

「米の研ぎ汁を発酵させて乳酸菌ウォーターにしたり、掃除に使ったり。重曹とお酢で掃除もできるし、洗剤を使わない暮らしって意外と心地いいんですよ」
現在はNEO食堂の近くに「AEEEN OMUSUBI」というおむすび屋をオープンし、今後は、“天むす”のおむすび屋をやってみたいという。さらに、冷凍うどんやカレーなど「NEO食堂」の人気メニューのレトルト化も構想中だ。
「私たちがやってることって、“続けること”なんです。“こういうやり方もあるよ”って提示し続けること。そこに価値があると思ってます。真似じゃなくて、“自分たちらしいことを、楽しく”っていうのが一番の軸ですね」
最後に、チェンマイという土地の魅力について尋ねた。
「空が広く、自然がすぐそばにある。バイクで移動する日々のなかで、気づけば空を見上げるようになりました。チェンマイは小さな町なので、あちこちに知り合いがいて、みんなによくしてもらえるんです。都市での暮らしでは得られなかった“心の余裕”が、ここにはありますね」
<取材・文/カワノアユミ>
【カワノアユミ】
東京都出身。20代を歌舞伎町で過ごす、元キャバ嬢ライター。現在はタイと日本を往復し、夜の街やタイに住む人を取材する海外短期滞在ライターとしても活動中。アジアの日本人キャバクラに潜入就職した著書『底辺キャバ嬢、アジアでナンバー1になる』(イーストプレス)が発売中。X(旧Twitter):@ayumikawano