一戦必勝の高校野球で求められる「逆境耐性」

広陵高校の部内暴力問題は“必然”だった…逆境を耐え抜くために...の画像はこちら >>
今年の夏の甲子園では、広陵高校野球部の部内暴力が大きくクローズアップされた。大会開催直前の7月23日、すでに甲子園出場を決めていた広陵野球部内で、この1月に下級生が上級生から暴力を受けたとする告発がInstagramで行われ、広島県警に被害届を提出して受理されたことがXやThreads等のSNSで拡散された。広陵は8月7日に行われた1回戦に出場、旭川志峯に勝利したが、2回戦に進む前の8月10日に大会辞退を決定している。
大会期間中の辞退は高校野球の歴史のなかでは異例のことである。

この一件で、SNSを中心に「体育会系」の部活動での暴力やハラスメント体質を批判する声が改めて盛り上がっている。一体なぜ、高校野球の中で暴力やハラスメントが生まれてしまうのか。本稿ではこれを制度や文化の観点から考えてみたい。

広陵の暴力事件と甲子園の辞退は、多くの人にとって衝撃的だったかもしれない。しかし、筆者に言わせればこれは高校野球という制度と文化が生み出す「必然」である。

現状の高校野球はトーナメント制が基本=負けたら終わりの一発勝負であるため、逆境を勝ち抜く精神力としての「逆境耐性」をつけることが、勝ち上がるための基本戦術である。その逆境耐性を鍛えるために、寮生活や練習などの日常をストレスで満たす――いわば「文化的ドーピング」が広く行われ、それが長年にわたる部活動の中の暴力やハラスメントを温存してきたのだ。

プロレベルで比較すると、野球というスポーツはサッカーやバスケットボールなどの他のチームスポーツに比べ、優勝チームの勝率が低いことが知られている。サッカーやバスケの優勝チームの勝率はおおむね7~8割程度に収束するのに対し、野球は優勝チームでも勝率が5割後半~6割前後である。統計的に「野球は番狂わせの多いゲーム」なのである。

実際、高校野球ではその日のコンディションなどによって結果が大きく左右されてしまう。
そのため高校野球の現場では、強豪チームほど相手に先行されても試合途中で追い上げ逆転する精神力が必要だと考えられてきた。これが「逆境耐性」であり、そのため多くの強豪校で採用されてきたのが、「試合以外の日常すべてをストレスで満たす」という“隠れたカリキュラム”だった。“隠れたカリキュラム”とは教育学用語のひとつで、「公式なカリキュラムには明示されていないものの、生徒が学校生活を通して学ぶ行動様式や価値観などのこと」である。本稿の文脈に合わせると「指導者や上級生によって公式に教えられているわけではないが、部員が野球部生活を通じて学ぶ行動様式や価値観」ということになる。

例えば、高校野球において、かつてのPL学園野球部は甲子園のファンたちから「逆転のPL」などと称賛されてきた一方、寮生活や練習などで暴力やハラスメントが非常に多かったことで知られている (こう表現すると怒りを覚える関係者も多いかもしれないが、多くの証言や高野連自体の暴力事案の発表からもはや動かしがたい事実である)。

逆境耐性を鍛える戦術としての「常在戦場」

なぜ日常をストレスで満たすと、野球の試合で逆境に強くなるのか。それは試合の時間だけは「ストレスフルで危険に満ちた日常」から一時的に解き放たれ、「日常より試合中のほうがマシ」という感覚に至れるからである。下級生は上級生からの圧力、上級生は指導者からのプレッシャーにより、立場は違えど常に高いストレス環境に置かれる。そのため、序列のどこにいても「日常より試合が解放区」という感覚が共有される。もちろんこの手法は倫理的に問題がある。だからこそ私は本稿冒頭で「文化的ドーピング」と表現したのだ。

100年以上の歴史を持つ日本の高校野球文化の背景には、伝統文化「武士道」が存在している。武士道にはもともと「常在戦場」という概念がある。
これは本来、平時であっても常に戦場に臨むつもりで心を備え、周囲の状況を察知しながら生きる=“戦場を生活する”という意味である。この心構えは、戦場ではない日常生活における他者への「礼節」や「配慮」を支える基盤ともなっていた。

高校野球においては長い歴史の蓄積のなかで、武士道の「常在戦場」の意味が「日常全体を暴力やハラスメントで満たし、選手にストレスフルな生活をさせることで逆境耐性を鍛える」という間違った形へと転化してしまったのである。

開星・野々村監督の“異端の現場実践”

もちろん近年の人権意識の高まりーー個人的にはあまりに遅きに失したと考えているがーーのなかで部内暴力やハラスメントは減少傾向にあると考えられる。しかし、高校野球が一戦必勝のトーナメント制で固定されている以上、いつでも今回のように蘇りうる。

私は自著『文化系のための野球入門』のなかで「高校野球における全国大会(=甲子園)は段階的に縮小ないし廃止し、高校生自身が運営主体となる地域でのリーグ戦に主軸を置き直す」ことを提案したが、これは暴力やハラスメントの根本原因となるゲーム性そのものを改善するためのものだ。

もちろん、この提案の実現が難しいことは先刻承知している。しかし、こうした「構造」そのものを高校野球をとりまく人々や社会に向けて顕在化させ、問題の所在を把握してもらうことはできる。「暴力はいけない」という平和主義的スローガンだけでは、高校野球の「(間違った意味での)常在戦場」という人権侵害を止めることはできない。

「常在戦場」のあり方を考える上で、個人的に非常に興味深いと感じているのが、「やくざ監督」の二つ名で知られる島根・開星の野々村直通監督の取り組みである(開星は今夏の甲子園にも出場したが、二回戦で仙台育英に敗れた)。同校のグラウンドには文字通り「常在戦場」という言葉が掲げられ、監督室には日章旗がはためく。

もちろん、こうした取り組みが社会から「異様なもの」と見做されることは野々村監督自身も自覚しているはずだ。だが彼はしばしば「武士道」本来の意味についてメディア上で語っていることから、「常在戦場」の本義も当然把握していると考えられる。


「暴力根絶」のスローガンを越えて

他の強豪校のように「常在戦場」という“隠れたカリキュラム”を外に露見しないように密かに行うのと、野々村監督のように武士道本来の「常在戦場」を顕在化させて用いるのとでは、その教育的機能が大きく異なってくるはずだ。

実際、野々村監督は広陵の一件に関してスポーツ紙のインタビューで、「上級生、下級生、上手、下手なしにみんなが平等で、というのがウチのチームはできたんです。補欠だからといってレギュラーをねたまず、レギュラーもバカにせず、徹底してミーティングしてそれを実現できたチームなんです」「自慢じゃないけど、ウチのチームは野球は弱いけど、弱い子を助ける人間の集団になってます」とも語っている。

野々村監督の言を信じるならば、一見すると「軍国調」「右翼的」「時代錯誤」にも思える指導を“明示的に”行うことが、逆説的に平等で民主主義的なチームづくりにつながっている、ということになる。

今必要なのは、単なる「暴力根絶」のスローガンではなく、その背景にあるゲーム性と文化を疑い、変革の糸口を探すことだ。高校野球を影で支配してきた「(間違った意味での)常在戦場」という“隠れたカリキュラム”を可視化させた上で、新たな議論を始める勇気が求められている。

【中野慧】
編集者・ライター。1986年、神奈川県生まれ。一橋大学社会学部社会学科卒、同大学院社会学研究科修士課程中退。批評誌「PLANETS」編集部、株式会社LIG広報を経て独立。2025年3月に初の著書となる『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』(光文社新書)を刊行。現在は「Tarzan」などで身体・文化に関する取材を行いつつ、企業PRにも携わる。
クラブチームExodus Baseball Club代表。
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