希音さんは神奈川県で生まれた。両親は彼女が3歳のときに離婚し、その後、母とともに母方の実家で暮らしたという。物心ついたときにはすでに、母の暴力に晒されていた。
面と向かって「産んで後悔している」と…
「母の暴力がいつから始まったのか、はっきりとはわかりませんが、小学校入学の時点ではあったと思います。実家に身を寄せている母は働いておらず、日常的に暴言を吐いたり、祖母に対しても暴力を振るっていました。殴る、蹴る――特に蹴られることが多かったですね。今冷静に振り返ると、彼女もまた何か精神的に病んでいたのかもしれませんが、当時は私も幼く、ひたすら怖かった記憶があります」暴力による支配はもちろん、母親はこんな呪詛で希音さんを雁字搦めにした。
「たとえば小学校の成績で‟5”を取ったとしても、離婚した父の名前を出して、『あいつの子どもなんだから、お前なんかうまくいかない』みたいなことを言われたりしました。小6か中1くらいだったと思いますが、面と向かって『産んで後悔している』と言われた衝撃は今でも覚えています」
祖父母に感謝しつつも…アンビバレントな感情が
勉強を頑張る娘に対して腐すような暴言の意図は、このようなものだったのではないかと希音さんは推察する。「私に家事をやってほしかったのだと思います。母は当時、祖父母からお小遣いをもらって生活していました。彼女は家事をやらず、娘である私が掃除機をかけたり、家族のぶんの料理を作っていました。
息苦しい子ども時代を過ごし、希音さんは「大学は行かせたい」という祖父母の援助を受けて大学に入学。20歳で一人暮らしをすると、実家とは徐々に疎遠になったという。
希音さんは虐待サバイバーであることはもちろん、現在でいえば、ヤングケアラーにあたる。だが一方で、大学に進学するなど、祖父母による経済的な手助けもあった。このことについて、彼女は非常にアンビバレントな感情を抱いているのだという。
「金銭的な援助をしてくれたことは、祖父母に対して非常に感謝しています。ただ、母が明らかに普通ではない精神状態であるにもかかわらず、世間体を気にして精神科医療に繋がなかったのも、祖父母なんですよね。事実、私は小さい頃、ヨソで家庭内で起きた出来事を言うのを祖父母によって止められていました。世間に対して恥ずかしいという思いが、頑なに見て見ぬふりをする結果になり、母の病理が深刻になったのではないかとさえ思っています」
母が祖母の頭を殴り、警察が介入する事態に

「逆上した母が祖母の頭を殴ったんです。それを聞いた親戚に説得されて、祖母が被害届を出したようです。さすがに我慢してきた祖母も限界だったようでした。
新卒入社した会社の社長から…
苦しかった青春時代、希音さんがすべてを捧げることで精神的に救われたものこそ、音楽だった。入学した高校は軽音楽の名門校。すべての熱量を傾ける間は、家庭でのつらい出来事を置き去りにできたのだという。「私の学校は、軽音楽部という名前の響きと裏腹にぜんぜん軽くなくて、死に物狂いで取り組んでいました。先生も音楽理論に精通していたので、かなり難しい音楽の話もきちんと学べて楽しかったですね。同期には現在も芸能界で活躍しているバンドがいるなど、刺激的な環境でした。その後、駒沢大学へ進学したものの、入った軽音サークルのレベルが高校に比べて高いとはいえず、物足りなさを感じた私はソロで弾き語りなどをやっていましたね」
ソロの弾き語り活動は、大卒後も続く。フルタイムで働き、土日は音楽活動をする日々がしばらく続いた。だが新卒で入社した会社において、上向きかけた希音さんの人生に再び陰が忍び寄る。
「いわゆるITベンチャーに入社しました。上司との意思疎通がうまくいかず、悩んでいたとき、社長から『相談に乗ろうか?』というメールが来たんです。
損害賠償を請求し、退社。その後は…
性被害を受けた理由について、希音さんはこう分析する。「1つは、話を聞いてもらうなかで、自らの生育歴を打ち明けてしまったことだと思います。誰も頼れる人間がいないことを知り、『多少行き過ぎたことをしてもオオゴトにならない』と弱みにつけ込まれた可能性はあります。もう1つは、幼い頃からの虐待の後遺症で、自分の意見を強く言えないんです。だから、怖さが勝って明確な拒絶ができずにいました。そのことが『Noと言わなかった』という、相手にとっての安心材料になった可能性はあります」
その後も社長から何度も着信があるなど、通常の業務に関係ない私用な連絡が続き、希音さんは弁護士を通して損害賠償を請求した。示談で手にした金額について虚しく感じたと感じたという。
入社から半年ほどで希音さんは同社を去った。その後は、水商売を含む複数の会社を転々とする日々が続き、大手企業での企画営業職として働いていたが、ある日まったく唐突に起き上がれなくなってしまった。
「その会社では忙しくも楽しく働けていたので、突然の出来事に私も戸惑いました。
虐待サバイバー同士でユニットを組んだワケ

「私が20代でライブハウスで歌っていた当時、演者は若いけれどもお客さんの大半はおじさん――というアンバランスな状況がありました。お客さんが求めているのは、元気で聞くと活力をもらえるような音楽で、私が過去の体験をもとに作ったものはあまり刺さらなかったんです。くわえて、お客さんの何割かは、少なくとも私の眼には、『若い子と話しに来ている』ような人もいて、そういうアイドル的な期待をされるのが苦痛でした。
30代になり、たまたま似た境遇で育った相方と音楽をやろうという話になって、自分が表現したいものを表現できるようになったので、活動をまたすることにしたんです」
音楽は「虐待と縁のない人」も楽しめるからこそ…

「ライブハウスでいろんなミュージシャンと話をしていると、実は家に帰りたくない事情があるとか、過去に虐待の記憶を残している、という子は多かったんです。みんな、音楽でその傷を癒やしているのだと知りました。もちろん音楽は誰にも開かれていて、虐待と縁のない人も楽しめるものです。
だからこそ、虐待をされた過去を持ちつつ、今必死に生きている人たちがいることを音楽を通じて伝えたいと思っています。音楽は表現方法の1つですが、同時に、私たちのような存在を周知するものにもなるはずです。
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過去の記憶に苛まされながら、希音さんは現在も苦しむ人たちのために奏でる。虐待に苦しむ人たちを温かい音が包み込むコミュニティが作られますように。そんな彼女の願いが、問題の当事者を超えた場所まで届くといい。
<取材・文/ 黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki