赤ん坊の私をエアガンの的にしていた
開口一番、「家のことを話しても、信じてもらえるかわからない」とヘルシェイクカスさんは困ったように笑った。彼女の両親が離婚をしたのは、3歳のときだったという。その後、彼女は母親に引き取られ、母方の祖父母と妹の5人で千葉県の団地に移り住んだ。
「私の父は中卒で職人になった人で、祖父いわく『自分の名前以外の漢字を書けない』人だったそうです。結婚の挨拶にも甚平でくるような常識のない人で、私が生まれてからも、赤ん坊の私をエアガンの的にしていたと聞きました」
家族全員からの虐待を受けることに
慈悲もない父親との生活を解消した先で、今度はさらなる虐待に晒されることになる。「今思い返すと歪な家族だったと思います。全員がいがみ合っていて、私を標的にすることでみんなの溜飲が下がるというような……。私は、家族全員からの虐待を受けることになりました。
殴る蹴るは基本で、たとえば祖父からはチャッカマンで焼かれる、祖母からは包丁を向けられる、母はご飯を作らない――などです。それぞれの力関係が微妙にあって、たとえば祖母は私の次に弱いんです。ヒエラルキーの下から2番目なので、私に鬱憤をぶつけるように攻撃してきました」
およそ信じられない話だが、最も驚くのは家庭内の最上位に君臨するモンスターが妹だという点だ。
「もともと、妹は母からも祖父母からもとても可愛がられていました。たとえば妹の誕生日にはケーキが出てきます。もちろん、私は食べられません。よほど親の機嫌がよければ分け前をもらえる、くらいの扱いだったんです。そういう格差が当たり前だったので、妹は私を奴隷のように扱うのが当然のように振る舞っていました。夜中でも『これ買ってきて』などは当たり前、もちろん、気に入らないことがあれば箸で刺してきたりも日常です」
小学生のときに「母親が料理を作らなくなった」
姉であるヘルシェイクカスさんには与えられないものも、妹は最初から手にしていた。「私が小学生のとき、母が『もうご飯は作らない』と宣言したんです。うちは家族というよりシェアハウスみたいな感じで、祖母は祖父と2人分の料理しか作りません。作らない以上、私と妹は母の手料理を食べられないのですが、妹はそれでも祖父母からご飯をもらっていました。私はパン屋さんで買える「10円の切れ端」を食べてしのいだり、ザリガニを近所の川で取ってきて茹でて食べていましたね」
なぜこれほどまで常軌を逸した虐待が行われ、それでもなお外部に伝わらなかったのはどうしてか。
「虐待がなぜ行われていたのか、正直、私が知りたいくらいです。当時、そこまで親の手を焼くような子どもではなかったと思います。気分によって苛烈な虐待が始まることを知っているので、可能な限り刺激しないように生きてきました。
外部にバレなかったのは、たとえば『家でお母さんがきちんとご飯を作ってくれると言いなさい』というように、自分たちのボロが出ないように、小さい頃から徹底して教えられてきたからです。だから、他の家庭も母親は料理を作らないけれど、そういうテイでみんなやっているんだと思っていました」
彼氏の家の食卓を見て、衝撃を受ける
だがヘルシェイクカスさんが高校生のころ、他の家庭との差異を自らの目で見る出来事があった。「交際している男性がいて、夕食をご馳走になることがありました。『遠慮しないでね』と出されたのは、お肉や野菜、ご飯、お味噌汁があって、デザートに果物まで。かなり驚いたのを覚えています。なにしろ、私は誕生日に母からお味噌汁を作ってもらって、感動したくらいなんです。彼氏に聞いてみたら、『別に普通だよ』と笑っています。きっと私が来たから奮発してくれたのかなと思っていたのですが、別の機会に突然お邪魔したときも変わらない料理が出てきて、彼氏の言葉が本当なのだと衝撃を受けました」
高卒と同時に観光系の専門学校へ入学し、寮生活を送ることになったヘルシェイクカスさんは、18歳で実家から離れた。進路についても一悶着あったという。
「当初、私は看護学校を志し、合格していました。試験前日には珍しく母が『勝つ』とかけてカツ丼を作ってくれるなど、応援してくれていたのですが……。
学費を貸してくれた“意外な相手”とは

「母が私を産んだ病院で、同じ病室になったママ友がいました。その人は母について深くはしらなかったようなのですが、子ども同士が年齢が一緒ということもあって家に行く機会があって。ふと家庭の事情を話したら、驚いて『頼りにしていいから』と。高校時代は週の半分くらいを過ごさせてもらったので、ご飯に困ることもなくて、助かりました。その人のことは育ての母と呼んでいて、今でも交流があります。結局、専門学校の学費も貸してくれたんです」
無事に観光業界で働き始めた矢先、コロナ禍で暗転した。業界全体が苦しくなるなか、なんとか築いた人脈で有名保険会社へ入社を果たす。だが思いがけない不調に見舞われる。
「もちろん小学生くらいから『死にたい』と思うことはあったのですが、21歳のときに1週間なにをしても寝られない日々が続きました。精神状態が不安定になるにつれ、食べることもままなりません。
家族との接触は最小限に
ヘルシェイクカスさんが、性風俗産業に身を投じるのはこの直後だ。世間では“風俗堕ち”などと揶揄されるなかで、彼女は自らの人生の変化についてこんなふうに捉えているという。「楽しい仕事ですよ。お客さんは優しいし、必要としてもらえるし、プレイ以外での虐待もない。むしろ、心から愛してくれるお客さんも多い。私にとっては居場所なんです。嫌いだった自分の過去のすべてが、風俗で肯定されたんですよね」
つらい経験をしながらも何とか家を脱したヘルシェイクカスさん。現在、家族とはLINEなどのやり取りのみ行い、接触は最小限にしているという。自らが巣立ったあとの実家が朽ちていく様子をこう振り返る。
「私が高2のときに祖父は肺炎で亡くなりました。私がいなくなったあとの家では、暴力の対象は祖母だったようですね。その祖母も最近亡くなったと聞きました。祖父のときに延命治療のようなものを行わなかったのですが、祖母のときは必死でやったと聞いています。なぜなら母と妹にとって、年金が入るかどうかは死活問題だからです」
“他人事感”に驚かされる
実家を「本当に恐ろしい場所だった」と語るヘルシェイクカスさん。その恐ろしさの根源はなにか。「自分たちがしてきた加害を瞬時に忘れ、ややもすれば被害者のように振る舞うところです。私がなんの仕事をしているのかは伝えていないものの、勘ぐっている部分はあるようで、『親からもらった大切な身体を変なことに使わないで』などと言ってきたりします。その身体をいじめ抜いたのは、誰なのかなと思ったりもしますよね。
また昔からおかしいなと思っていたのは、虐待のニュースなどが流れると、涙を流すんですよ。おそらく本気で心を痛めているんだと思います。自分たちがまさにやってきたことなのに、その“他人事感”には驚かされます」
家族から精神的に解放されたヘルシェイクカスさんは、現在の仕事をこの先もずっと続けたいのだという。
「SMはいじめる、いじめられるの構図で捉えられることが多いのですが、それは本質ではありません。身を委ねられる信頼があるからこそ、成り立つんです。そういう心許せる関係性を家族と築けなかった自分にとって、この仕事は生きがいなんです」
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家族全体が荒んでいて、その加虐性に思わず顔をしかめたくなる。自分は生きていても仕方がない。そんな思考に囚われ、大切にされることを諦めた時期もあったという。ヘルシェイクカスさんが最後に筆者に打ち明けた、「あのとき自殺が失敗して良かったと思う」という言葉こそ、彼女の期待と希望であり、行く末の明るさを象徴している。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki