妊婦に譲った席を横取りされ…
テレワークが普及する以前、今よりも通勤ラッシュがずっと過酷だった頃のこと。中川浩二さん(仮名・40代)は、第一子が生まれたばかりだった。
中川さんは、毎朝確実に座れる電車を選び通勤していたという。
ある朝、肩が触れ合うほどの混雑だった。そこへ、妊婦が乗り込み、中川さんの斜め前の吊り革をつかみ、わずかに息を整えていた。
「妻が、出産直前まで働いていたときの姿が重なりました」
中川さんは反射的に立ち上がり、開けた席を指して妊婦に声をかけた。
「妊婦さんは驚いて一度は首を振ったのですが、再び声をかけました」
そして、妊婦が「ありがとう」と言いかけた次の瞬間……。
「アンタじゃねぇよ」と一喝
ドスッという鈍い音とともに「ふぅぅぅ」というため息が聞こえてきた。視線を向けると、サラリーマン風の男性がヤレヤレといった表情で、その席に座ったのだ。
「アンタじゃねぇよ!」
「自分でも驚くほどハッキリした声で言っていました」
男性はポカンと口を開け、しばらく沈黙してから間の抜けた声で、「そうなの?」と返していたという。その“なにが悪いの?”とでも言いたげな態度に、中川さんは吊り革を握ったまま顔を近づけた。
「当たり前だ!」
男性はようやく立ち上がろうとしたが、その動きはもたつき、中川さんの苛立ちはさらに募ったそうだ。
ようやく席が空き、妊婦が座ったことで一件落着したのだが……。
「妊婦さんにも不快な思いをさせたのではないか……と、ずっと考えていました」
降車駅で下車する際、妊婦が軽く会釈をしてくれた。その一瞬が、中川さんにとって唯一の救いだったようだ。
席を譲った瞬間、返ってきたのは感謝の言葉ではなく…

「ふと顔を上げたら、斜め前に女性が立っていたんです。“65歳くらいかな”と思いましたね」
髪型や服装はきちんとしていて上品そうな雰囲気の女性だった。「高齢者」という意識はなかったが、子どもの頃から“目上の人には席を譲る”という習慣が反射的に動き、川原さんは立ち上がった。
「どうぞ」
そう伝えた次の瞬間、女性は眉間にシワを寄せ口元を締めた。
「結構です。そんなに老けて見えますか?」
その場にそぐわない大きな声が車内に響き、空気がピリついた。近くの乗客たちの視線が一斉に川原さんに集まったそうだ。
今後、高齢者に席を譲れるのか…
「恥ずかしさと申し訳なさで、いたたまれなかったです」幸い電車が止まったため、降りる駅はまだ先だったが、逃げるようにホームに降りた。電車が走り出し、川原さんがいた場所を振り返ると、譲った席は空いたまま、女性はまっすぐに川原さんを見ていたという。
「次第に恥ずかしさよりも、怒りが込み上げてきました。私は席を譲っただけなのに、感謝どころか逆ギレされるとは思いもしませんでした」
次に、“本当に席を譲るべき高齢者”が目の前に現れたとき、素直に行動に移せるのか……。川原さんは、不安を抱えたまま自宅の駅へと向かった。
<取材・文/chimi86>
【chimi86】
2016年よりライター活動を開始。出版社にて書籍コーディネーターなども経験。趣味は読書、ミュージカル、舞台鑑賞、スポーツ観戦、カフェ。