初めて日本をワールドカップに導いた監督は岡田武史。マイアミの奇跡でブラジルを撃破したのは西野朗。
そして、初めて日本をワールドカップの決勝トーナメントに導いたのはフィリップ・トルシエ。偉業を成し遂げた監督は歴史に名を残し、ファンの心にも刻まれる。
では、Jリーグ初年の年間王者の監督という、日本サッカーの歴史に十分に名を残す経歴を持っているのは誰か。それは松木安太郎である。

※本記事は、『緑の血脈~東京ヴェルディ 異端の源流~』(彩図社)より適宜抜粋したものです。

松木安太郎「日本のサッカー史上、最も難しい仕事をした」Jリー...の画像はこちら >>

「終身雇用」と「年功序列」

テレビ朝日1階のカフェで、私は松木に会った。松木は読売サッカークラブの下部組織で育ち、高校2年の頃にはトップチームの試合にも出場している。その後は、右サイドバックのレギュラーで、キャプテンも務めた。1989年に現役を引退すると、読売クラブで指導者の道を歩んだ。

松木は読売クラブについてこう振り返る。

「クラブの内部ではプロとして扱われていました。昭和の時代の象徴ともいえる年功序列と終身雇用とは逆行していました」

現代社会において「終身雇用」「年功序列」は、「神話」となりつつある。しかし、松木が読売クラブでサッカーをしていた1970年代、80年代は、この「神話」は疑う余地のない「常識」であった。
今、令和の時代となり、この懐かしき「神話」は社会生活を送る上で、とても理にかなったものだったのではないかと再評価をされている。

ただ、それはあくまで一般的な社会生活での話。プロスポーツ選手という職業に当てはめるのは無理がある。完全な実力主義のプロスポーツでは、必要とされなければ、それで雇用(契約)は終わり。自分がどれだけ年長者であろうと、どんな実績を持っていようと、他の人材の方が必要と判断されれば、ステージから降りなければならない。一般社会の感覚を持ち込んで勝てるほど、甘くはない。

「読売クラブって先輩も後輩もピッチの上では関係ない。もちろん先輩だってゲームでは呼び捨てですしね。これってサッカーではすごく大事なこと。日本のサッカーが低迷していた理由のひとつが、先輩後輩の関係性がゲーム中でも意識させられていたってことがあると思うんですよ。気を使いすぎていることが足を引っ張っていたんだと思う」

そして、きっぱりと松木は言い切った。

「僕たちは終身雇用や年功序列という生き方には反発を持って生きてきたんです」

読売クラブに根づく先駆的な意識

1990年4月12日、日本サッカー協会の理事会が開かれ、プロリーグ創設に向けた原案が承認された。これは川淵三郎が委員長を務めるプロリーグ検討委員会が構想を練ったものである。
ここから日本サッカー界のプロ化の動きが本格的にスタートすることになる。

そして1991年7月に「Jリーグ(日本プロサッカーリーグ)」の名称が決まった。読売サッカークラブも「ヴェルディ川崎」と名称を変えて、川崎市の等々力陸上競技場を本拠地とすることが決まった。

サッカー界が急速に動く中で、クラブと企業の関係性についてリーグの方針が激しく議論された。ヴェルディは当初、企業名を入れた「読売ヴェルディ」という呼称を名乗ろうとするなど、当事者として議論の渦中にいた。ただ、この歴史的な転換期の中で、当時クラブのコーチを務めていた松木の反応は鈍かった。

「僕はそういうウワサ話には疎かったんですよ。プロリーグができるかもしれないって話は裏ではあったと思うんですが、現場に集中していてね。よく分かってなかった」

他の実業団チームはプロ化へ向けて、大騒ぎとなっていた。選手は企業の社員になるか、プロサッカー選手になるか、選択を迫られた。そもそも企業側もプロサッカークラブとはどんなものかよくわからない。そんな中でも、とにかく環境を整備しなければならないと焦っていた。


ただ一方で、読売クラブは誕生以来、実質的にプロとしての体裁を整えており、この歴史的な転換期であっても、状況の変化にとまどうことは少なかった。松木の反応が鈍かったのも、すでに自分たちのクラブはプロであるとの意識を持っていたからであろう。他のクラブはヴェルディの環境を参考にした。選手の年俸も、ヴェルディの選手たちを基準に設計された。

こうして、Jリーグは誕生した。

勝てば官軍だが、負ければ…

Jリーグがスタートする前年の1992年。松木が35歳の時だ。ペペ監督が辞任して、ヘッドコーチであった松木が監督に就任することが決まった。世の中の動きに疎かった男が、ここで突然、矢面に立つことになる。

「いつかは監督をやりたいなとは思っていましたけど、まだ早すぎる。そんな感じでした」

リーグ発足当時、いわゆる「オリジナル10」と言われるクラブの中で、もっとも若い監督であった。しかも、これまでトップチームでの監督経験はない。読売サッカークラブは1980年代に日本サッカーリーグを3回制覇し、直近の90年代では2年連続で優勝している。


勝って当たり前。

どんなに素晴らしい結果を出しても、「あれだけの戦力がいればね」と監督の手腕に目は向けられない。ただし、負ければ、「選手は良いんだから監督の責任」と戦犯扱いされる。松木が担うことになる仕事は、想像よりもずっと損な役回りだった。

「これだけの常勝クラブですから、2位ではよくない。そもそも選手時代から優勝しないと何も残らないよって言われる中で育っていますから」

10人全員がやめろと言った

また、Jリーグ発足の年はドーハの悲劇で知られるアメリカワールドカップの最終予選があった。ヴェルディ川崎から日本代表として招集されたのは、三浦知良、武田修宏、ラモス瑠偉、北澤豪、柱谷哲二、都並敏史。彼らは日本のサッカー界の命運をかけた重要な戦いを託され、途中でクラブから離れることが決まっていた。主力がいない間のクラブのやりくりも難しい。

もっと細かく分析すれば、柱谷哲二、三浦知良、武田修宏らは年齢的にサッカー選手として最も脂が乗っている時期であったが、ラモス瑠偉、加藤久、戸塚哲也、都並敏史はすでにベテランと呼ばれるような領域に達している。確かに圧倒的な戦力は保持していたものの、まさにこの瞬間が最盛期であり、今後のことも考えれば、新しい選手たちの成長を促すことも必要であった。監督としてやるべき仕事は、とても多かった。

「10人に相談したら、10人にやめておけって言われる状況でした。
僕ももっといろいろな形で勉強をしてから、監督になれればよかったとは思います。ただね、僕が指名されたのは、今までのクラブの流れを知っている人間であることも大きかったんだと思う。伝統を引き継いでいくために僕が指名されたんじゃないかな。だから僕が引き受けたのは、このクラブでお世話になった方々への恩返しという意味もありましたよ」

まだサッカーというものが日本でマイナーであった時代。誕生してからずっと日本サッカーの本格的なプロ化を目指していたのが読売クラブである。そんなクラブに育成年代から所属している松木は、クラブの歴史的な意味を十分に理解している存在だった。Jリーグ誕生という節目に、彼こそが監督にふさわしいとクラブ側が考えたのは十分に理解できる。

監督就任当初は、まだJリーグがどうなるかわからない。そしてヴェルディ川崎というクラブも、どうなるのかわからない。ただ、「年功序列」と「終身雇用」という生き方に抗ってきた松木には、人知れず秘めた決意があった。

「最終的に引き受けましたが、これが僕の最後のステージだと覚悟を持っていた。ダメな時は自ら辞めなくちゃいけない。
その時はクラブに残ろうとは思っていなかった。武士道のような感じかな。ただね、僕の仕事はこのクラブが将来、何百年も繁栄をしていくための準備で、1年で辞めようが2年で辞めようがやった仕事はこのクラブに残るはず」

父の背中から学んだ、覚悟の決め方

そんな武士道的な原点を、松木は父の背中から学んだそうだ。

「僕の父は特攻隊の生き残りでね、献身的に尽くすということの大切さを小さい頃から聞いていた。そんなことも影響していたのかもしれませんね」

一度決めてしまえばあとは進むのみだった。

「母方の家は日本橋の老舗のうなぎ屋、父の方の祖父は十両の力士。僕はそんな江戸っ子気質を受け継いでいるから、一度決めたら引けないんです」

当時の覚悟を笑顔で振り返る。

「これは書いてほしいんだけど」

そう前置きをした。

「日本のサッカー史上、最も難しい仕事をしたのは、僕だと思う」

控えめではあるが、松木は少しだけ胸を張った。

<TEXT/海老原一哉>

【海老原一哉】
1980年生まれ。ライター。元夕刊紙記者。週刊誌での人物インタビューなどを中心にカルチャー、芸能、スポーツなど幅広い分野を取材。ジャンルを超えて「異端」とされる人物、テーマを追いかけている。
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