だが人はどうにも忘れっぽい。だからこそインフルエンザが猛威を奮っているわけだ。
今あらためて気をつけたい「咳エチケット」。先日、咳を発端にして起きたトラブルを目の当たりにしたという夏目 亘さん(仮名・34歳)の話を聞くと、別の意味でもマスクを持ち歩きたくなるかもしれない。
通勤中、目の前で咳き込む人が
夏目さんは多摩地区在住の会社員だ。23区にある職場へは、日々電車で通勤している。「距離は遠いし時間もかかりますが、フルフレックスの会社なので、ラッシュ帯は完全に避けて通勤できており、ストレスはありません。23区外なら、詰めて座れば全員が着席できる程度が混雑の上限といったところ。殺伐とした空気はなく、普段は日々の読書タイムとして快適に過ごしています。ただ、つい先日の帰路では、目の前の席に座ってきた人がずっと咳き込んでいて……」
その日、夏目さんは車両連結部のすぐそば、3席だけの座席の角を確保できていたらしい。長時間を電車で過ごすなら、絶対に席を移りたくはないスイートスポットだ。
「なので、嫌だなぁと思いつつも、我慢していました。
やむを得ず、ハンカチで口元を防御
なお、隅の3席は優先座席であることも多いが、その座席はあくまで通常の座席であったとのこと。「咳き込んでいたのは、20歳前後くらいの若い男性でしたね。どこにでもいる元気盛りの学生っぽい感じで。だからこそ健康意識も低いのかもしれませんね。ただ自分は社会人だし、30代も半ばになって、体力の衰えを感じつつある今日この頃なので(苦笑)、途中からはハンカチを取り出して口に当てました」
咳き込む若者が乗ってきてから、次の次の駅がターミナル駅だった。
「乗り降りする人は当然多く、私とその若者以外、この6席の周辺にいた人は全員捌け、新たな乗客が乗ってきました。私の横には会社員風の人たちが、若者の隣には少しヤンチャそうなカップルが座ったんです」
人は入れ替わったが、若者の咳は止まらなかった。
「前のカップルは、女性を端にし、男性が真ん中に座っていました。見かけはヤカラっぽかったものの、いたって静かに過ごしていたと思います。集中できないなりに本を読もうとしていたので注視はしていませんでしたが……」
そんな夏目さんがついに読書を諦める出来事が起きた。
「いい加減にせぇよ」と…
「カップルの男性が、例の若者に『いい加減にせぇよ』と低い声ですごんだんです。車内は静かだったので、さほど大きくない声でもよく響きました。こう言うのもなんですが、妙に聞き応えのあるいい声で、つい聞き入ってしまうほどでした」演説自体も見事だったらしい。
「兄ちゃん、ずっとゴホゴホ言ってるけどその両手は飾りもんか? スマホしか触れんのか? だったらいいことを教えてあげようなぁ。マスクっつうもんが駅のNewDaysでも売ってんのよ。手も必要ないから兄ちゃんにぴったりだと思うわ。つうか俺の嫁さんな、妊娠してんのよ。兄ちゃんの咳がインフルなんだかコロナなんだか知らねえけど、移ったらどう責任取ってくれるんか?」
といったようなことを一息で話したと夏目さんは言う。
「詳しくないからわかりませんが、ラップでもやってるんですかね? 覚えているのはほんの一部で、実際にはこの3倍以上の言葉数で、よどみなく詰めていました。怖いけど正論過ぎるし、もはや清々しいほどだなと思っていたのですが……。『なあ目の前のお兄さん見て? お前さんが手放しで咳き込んでるからハンカチで口を覆ってる。本なんてスマホと違って両手で読みたいと思うけどなぁ』と、私まで引き合いに出されたときには焦りました(笑)」
次の駅で降りていき、ようやく平穏が
その間、咳男はただたじろぐばかりで、なにも答えることはできていなかったという。「そうこうするうちに次の停車駅が来て、若者は逃げるようにそそくさと降りていきました。本当に降りたい駅だったのかはわかりませんが、男性の堪忍袋の緒が完全に切れてしまう前に降りてくれて助かりましたね。もちろん、残りの乗車時間がノーガードで咳き込み続ける人から解放されたのも大変ありがたかったです」
若者の降車後、カップルの女性が口を開いた。
「『勝手に妊婦にして!(笑) 私は今日は妊婦だから、帰りにハーゲンダッツ買えよな』みたいなことを言っていました。妊娠のくだりは出まかせだったのかと思うと、口達者ぶりの恐ろしさがより際立ちましたね。体調を崩すのも嫌ですけど、あの若者みたく詰められることがないようにと、常備用のマスクを即座にポチったほどです」
そのマスクは早速活用されることになった。
「この出来事から3日後、ばっちりインフルエンザに罹ってしまいました。ほかに怪しい人の心当たりがないので、例の若者からもらったのだと踏んでいます。まあ、病院に行くときにマスクがあって助かりましたよ……」
感染症を移すも移されるも、みなさまご注意されたし。
<TEXT/鬼怒川庸二>
【鬼怒川庸二】
街角では知り合いに間違われ、飲み屋では酔客に話しかけられる性質を持つ。娑婆の声に耳を傾けているうちに、自然と副業ライターになった。本業もまた別ジャンルの書く仕事。ドッペルゲンガーの報告はこれまで30件超にのぼる
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