K-POPイベントに出演したAdoが炎上しています。9月22、23日にベルーナドームで開催された『INKIGAYO LIVE in TOKYO』の23日公演に大トリとして出演。
檻のようなセットに覆われ顔を隠すいつもの演出で、最後に「踊るポンポコリン」を歌ったところ、他の出演アーティストのファンから「K-POPのイベントなのになんでアニメンソングで締めるのか」などと大ひんしゅくを買ってしまいました。
 また、演出の特性上、Adoの出演時のみ双眼鏡の使用が禁止されたことや、K-POPイベントの恒例であるフィナーレがなかったことが疑問視され、不満が噴出したのです。
 

社長声明でも消えぬ「なぜAdo?」の声

 この事態を受けて、Adoの所属事務所「クラウドナイン」の千木良卓也社長は声明を発表。Adoの出演がライブの運営サイドからのオファーだったことを明かし、「韓国の皆様にぜひ日本を知って頂きたい、Adoファンの皆様にぜひ素敵なK-POPを聴いてもらいたい」との動機から出演を決定したと語りました。

 しかし、いまだ騒動が収束する気配はなく、韓国メディアもAdoの演出の是非を問う報道をしている状況です。

 ネットでは、イベントの趣旨とAdoという存在がマッチしていないという声が多くあがっています。確かに、SNSでのコメントやこの件を報じた記事を読むと、なぜAdoがその場にいなければならなかったのかという唐突感は否めません。

 そして、その唐突感を突き詰めると、そもそもAdoって一体どんな歌手、アーティスト、ミュージシャンなの?という疑問に尽きるのだと思います。

メタリカから一転「落差」への戸惑い

「大トリでポンポコリン」K-POPフェスに出演したAdoが炎...の画像はこちら >>
 たとえば、8月14日から16日まで開催された『SUMMER SONIC 2026』で、Adoはアメリカのヘヴィメタルバンド、メタリカの「Enter Sandman」をカバーして大きな話題になりました。これは、かねてからAdoのボーカリストとしての実力に疑問を抱いていたコアな洋楽ファンを黙らせる選曲、そしてパフォーマンスだったという評価です。

 さらに、メタリカ本人たちから、Adoがカバーしたことに対する感謝を伝えるSNSの投稿がされたこともあり、ここでAdoは「本格派のボーカリストなのだ」という、一定の評価を得られたわけです。

 しかし、そこから一転して、完全アウェイに近いK-POPイベントで、しかも「踊るポンポコリン」を歌うことの振れ幅は、あまりにも大きすぎる。つまり、一ヶ月前には「本格派ロックボーカリスト」だったはずの人が、アイドルの見本市のようなイベントで、アニメ主題歌を歌うことの落差についていける人は、そんなに多くないのです。

見えないのは素顔ではなく「音楽の顔」

「大トリでポンポコリン」K-POPフェスに出演したAdoが炎上…素顔よりも伝わらない“音楽の顔”への違和感
Adoさんの『狂言 (通常盤)』(ユニバーサル ミュージック)
 もちろん、メタリカから「踊るポンポコリン」まで歌いこなせるという見方もできるでしょう。
けれども、それはよほどのファンでなければ好意的に解釈できるものではありません。大多数である、Adoのファンでない人たちは、そもそも彼女がどのようなジャンルを得意とし、どのような音楽的な趣味嗜好を持ったボーカリストであるかをほとんど知りません。ただ「圧倒的な歌唱力」という形容詞と、顔を見せないミステリアスな演出だけが独り歩きしている状況になってしまっているのです。

 こうしてアーティスト、歌手、ミュージシャンとしての明確な軸が定まらないまま、多角的にPR戦略を打つような形でさまざまな場に出向していくから、顔を見せないことや檻に入って歌うという演出に対する批判が強まってしまうわけです。

 歌というのは、音楽であると同時に、その人となりが如実にあらわれる表現形態です。そう考えると、Adoの創作活動やPR戦略は、むしろそのキャラクターを埋没させるように作用しているように聞こえてなりません。

 つまり、本当に世間から見えないのはAdoの肉体としての「顔」ではないのです。彼女が一体何を求めて歌おうとしているのか。それが具体的なサウンドとして伝わってこないから、音楽の「顔」が見えてこない。

 K-POPイベントのクロージングで「踊るポンポコリン」を歌うチグハグは、そうしたテーマの喪失から来ているのだと思います。

文/石黒隆之

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。
『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。X: @TakayukiIshigu4
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