今月3日に89歳で亡くなった巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんの長男でタレントの長嶋一茂が6日、金曜コメンテーターを務めるテレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」(月~金曜・午前8時)に生出演した。
番組では、東京・稲城市の「ジャイアンツタウンスタジアム」に4、5日の2日間、設けられた長嶋さんの「追悼記帳所」にのべ4000人近くが訪れたことを報じた。
司会の羽鳥慎一アナウンサーから父への思いを聞かれ「う~ん…なかなかね、一言で言うのも難しいし…故人にもプライバシーがありますから。多くもなかなか語れないんだけど」と切り出し「う~ん…どうなのかね…父親としてっていうところと、僕も野球をやっていたんで野球人としての見方って2つの視点、観点でずっと背中を見たり生き様を見たりしてきたと思うんですけどね…う~ん」と絶句した。
羽鳥アナから父親としての見方を聞かれ「ホント、まさしく、昭和の父親っていったら昭和の方に怒られるかもしれないけども、あまりその何だろうな…家庭の方を向いてないで常に仕事の方を向いていたよね」と明かし「昔の人ってたぶん、それでよかったし、実際に遠征もあったりして、キャンプもあったし、家にいる機会は、もちろん少なかったし、その分、触れ合う機会っていうのももちろん、少なかったんだけど、それでもやっぱり一緒の一つ屋根の下に暮らしていた時期…中学ぐらいまでもちろん僕はあったんですけど何か感じるものは、当然あったし」と明かした。
続けて「ご存じのように21年前に大病を発症してからっていうのはすごく大変な人生だったと思うんです。野球を始めてからそこまでもずっと闘ってきたし、むしろ21年前に大病を発症してからの闘いの方が壮絶過酷だったと思います、僕はね」と明かし「あの…ず~っと闘ってきた人だと思います。その闘いの中で闘いの現場で自分を輝かせて、パフォーマンスを出してファンに喜んでもらうというこの一念だけで89年間の人生というものを終えたと思います」とコメントした。
そして「僕は『終えた』という今、言葉を使いましたけど…母親の時と同じように…みなさん、そのご家族の方が亡くなった時に…肉体的には見えなくなるけど心の中でこれからずっとまた違う形で生き続けることだ思うので、僕の中ではどうだろう…」と明かし「この間、きょうだいとも会って病室にみんな集まったけども、泣いているきょうだいは逆にいなくて、笑い声さえ聞こえて。あのぉ…まぁ最後、病院でね、そこのスタッフ…医療従事者の方たち、先生も看護師さんもいろんな方たちにサポートされて…最後3年間は病院だったんですけども。あのぉ…妹たちと話したのはすごいきれいな若い看護師さんがたくさんいた病院なんですよ。これは、やっぱり、ウチのオヤジのことね、妹なんか『パパは幸せだよね。
そして記帳したファンのVTRを振り返り「今、涙ぐまれている方もいらっしゃいましたけど、そういう気持ちになるのは仕方がないというか当然のことだと思うんですけど、そんなにしんみりしてもオヤジは喜ばないだろうなという気持ちでいます」と明かした。
羽鳥アナから「偉大な野球選手」としての父への思いを聞かれ「僕が小学校の時っていうのは、ほぼみんな野球をやっていたって時代だったんで、友達が始めたから野球を始めたってところがあって。より真剣に小学校…僕は中学は野球をやらなかったんですけど、高校で野球をやったり、大学でもやって、その後、プロへ行くんですけど…面白くて始めた野球がだんだん真剣にやらなくてはいけなく野球に変わっていったのと。もちろんプロだから真剣にやるのは当たり前なんだけど…父親の存在が偉大過ぎたんで、近くにいた父親が野球をやるたびにどんどん離れていったような感覚になりましたね」と明かした。
続けて「つまり、周りの人たちは『君のお父さんはね…』ってだいだいここから始まるから、俺に声をかける時は。それがずっと続くと、何だろうな?みたいなところも若い時あったんだけど…やっぱり父親の偉大さっていうのは、野球をやってたからより分かったんでしょうね」と明かし「やってなかったら野球の話もたぶん、なかっただろうし、僕は違うことできるかどうかは分からないけども、野球以外のことだったらこれほど影響を受けたことはないんじゃないんですかね。野球をやってユニホームを(着て)やっている時の父と家庭にいるときの父親っていうものを両方見させてもらった」と回想した。
羽鳥アナからプロ野球選手の引退を監督だった父から通告された時の思いを聞かれ「父親に言わせてしまってはいけなかった言葉だなぁとやっぱり思いますね。約30年前の話なんだけどね…。
コメンテーターを務める元テレビ朝日社員の玉川徹氏が「長嶋茂雄さんは昭和を象徴するようなスーパースター中のスーパースター」と評し、その息子に生まれ同じプロ野球選手として生きた人生を「子どものころからつらいこともあったんじゃないか?ってずっと聞きたかった」などと問われれ「う~ん…一概には言えないけど、どうなのかな?つらさってみなさん、ここにいらっしゃる方も含めて試練も必ず来るだろうし、つらいときも来るだろうし、悔しい時も悲しい時も寂しい時も、また喜んだり楽しめる時ってみんな平等に来るものだと僕は思っているんで、その中で僕のつらさがみなさんと比較してどうか?っていうのは、ちょっとお話しづらい部分もあるし」と返答し「だって僕が玉川さんになれないから。玉川さんもつらいことは、たくさんあったと思うけど、僕が玉川さんの体に入り込めるんだったら、そのつらさを感じて自分と比較はできるだろうけど」とコメントした。
さらに「僕は神様は、つらさとか人生の喜びであったり、幸せはみなさん平等に訪れると自分で勝手に思っているんで、自分だけのつらさが他の人よりつらいことはないと思っています」と明かし「ただ、少し父親が偉大過ぎて昭和のスターだし、少し他の方とは違う環境ではあったかもしれないけど、でも別に1人の人間としてそこは監督と選手の間、父親と息子の間…っていうところは玉川さんも含めてみなさんとそんなに差異はないとは思います」と明かした。
この答えに玉川氏は「あえて野球という道を選んだわけでしょ?選ばないという選択肢も、もしかしたら考えたことも、あるのかな?と思ったりもしたんだよね」と質問した。一茂は「う~ん…野球は、玉川さん、別に無理やり選んだわけじゃなくて」と否定すると「自分が好きだから、野球って面白いなって。最初はハンドベースボールってあったでしょ?あそこから始まって。三角ベースとかが始まって、で、野球に行くんだけど。そういうことやっていくとあっ野球って楽しいな、面白いなっていうのがあって、奥深いなって」と明かし「野球の話を…本当にちょっとの間だったけど、父親とできるのが楽しくて。キャッチボールしてくれる時もあって。
続けて「俺が当時、自分が机に座って勉強なんて1分もできないんだけど。キャッチボールは、2時間でも3時間でもずっと…しかも父親も真っ暗になるまでずっと付き合ってくれたり…野球の基本はキャッチボールだけど、そこを通して父親と会話できたのが私の中での最大の思い出で。それは言葉じゃない。というのがあったというのが僕の中でずっとしまっておこう」と明かした。
さらに「会話っていうのはいろんな方法があるんだなって思うしね…そういう意味では男に生まれて野球ができて僕自身も先ほど羽鳥君言ったみたいに30年前に引退宣告を父親にさせちゃったって…とても悔しくて残っているんですけど…感謝しかないです」と思いをはせた。
そして羽鳥アナからきょうだいが明るく見送った最後の病室の秘話に「長嶋さんの人柄を表しているのかな」と触れられ「とにかくネガティブな言葉とか行動が大嫌いな人だしそれは絶対やらない方だった。だから常にポジティブ。24時間、100パーセント、ポジティブな思いでずっと人生駆け抜けてきたので。そういう思いが最後、火曜日の日。
一茂はスタジオでおよそ15分間にわたり父への思いを打ち明けた。