長嶋茂雄さんが3日に亡くなった。71歳の私もご多分に漏れず小学生の頃から「長嶋茂雄になりたい」世代である。
記録担当の時は上司の宇佐美徹也に教えられて長嶋さんの数字分析のお手伝いさせてもらったが、当時は取材記者でなかったことで面と向かってお会いしたのは2度だけ。1974年、甲子園でのメッツ・全日本の日米野球の試合前と、1979年スピードガン担当で、長嶋さんの結婚をスクープした瀬古正春さんと一緒に宮崎キャンプで取材でお話をうかがった時しかない。
入社2年目、私は早めに甲子園に行って誰もいない一塁側ベンチに座って「ああ、これが、高校時代に憧れた甲子園だ」と感慨にふけっていた。数十分後、最初にベンチに出てきたのが現役引退を決めていた長嶋さん。番記者に囲まれながら、なんと私の隣にどっかり座り込んで、いきなり面識のない私の左膝をポンとたたき「おー元気か」と言ってきたんです。私は緊張して「はーはい」と言っただけ。回りに長嶋番が囲んでいるので立つに立てず。長嶋さんと番記者とのやりとりをずっと聞くしかなかった。
報知の紙面で何度も書かせていただいたが、ここで私のネット原稿第1回に書いたコラムを再録したい。
イチローのマリナーズ入団が正式に決定した。その記者会見で「ポジションは奪うもの。自信はあるし、それがなければ、この場所にはいない」と言い切った。
あれから5年、野茂がきっかけを作った日本人メジャーの入団時の会見での期待度は大きく様変わり、選手のコメントも自信満々に変わってきたのがわかる。それはまた、日米の野球が縮まったことの証明かもしれない。日本での7年連続首位打者の実績に「メジャーの環境に慣れたなら通算8度首位打者を獲得したパドレスのトニー・グウィン外野手をほうふつさせることになるだろう」との記事も掲載されている。
昔から、日米野球をやる度に日本の投手の評判はいつも大リーグで通用するという評価だった。古くは1934年で伝説の沢村栄治がルース、ゲーリッグを抑えて注目され(沢村は1994年にテレビ放映された[BASEBALL」という18時間のドキュメンタリーの中でただ一人映し出された日本人選手)、その後も数々の投手がメジャー関係者の胸を揺さぶった。
だが、野手となると褒め言葉はあるものの米国に連れて帰りたい、と言われた選手は中々出なかった。そんな中、1958年にカージナルスが来日した際に、立教大学から入団。プロ1年目で本塁打と打点の2冠王となって新人王を獲得、日米野球でも大活躍した巨人・長嶋茂雄三塁手(現監督)だけは違った。
カージナルスのヒームス監督が「30万ドル(当時のレートで約1億円)かかっても欲しい」と米国記者に語った。同じくカージナルスのボイヤー三塁手は「彼は大リーグでも十分やれる。オレが6年かかって大リーガーになったが、彼はそれは必要としない」。
長嶋絶賛の記事が米国の新聞に掲載されたため、AP通信の記者が巨人軍球団事務所に品川主計球団社長に取材。同社長は「100万ドルくれてもやりません。現在、日本のファンは長嶋一人のためにどれほど野球を楽しんでいるか。また30万ドルぐらいなら長嶋一人で稼ぐかもしれない」と語ったそうだ。
品川社長はけい眼だった。その後、球界は長嶋を中心に動いていったと言ってもいいだろう。(その構図は42年たっても変わらない)
それはさておき、長嶋さんがもしその時にメジャー入りしていたら、どんな結果を残しているのかも非常に興味ある話だ。イチローがメジャー挑戦を発表した際には「悔いのないメジャー生活を送っていただきたい」という談話を出した。これも新人時代のそんな勧誘があったからに違いない。来年のマリナーズの開幕戦は日本時間4月3日、長嶋さんはきっと眠い目をこすりながらも、自らが一瞬でも思い描いた夢の代弁者、イチローのプレーを感慨深く見るに違いない。
イチローの活躍に加え、25年後の現在はドジャース・大谷翔平がメジャーを席巻している。現在の30球団に対し16球団だった当時の米大リーグに飛び込んでいたら、どんな成績を残してただろうか。興味は尽きない。
長嶋さん、ありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。
蛭間 豊章 ベースボール・アナリスト