◆報知プレミアムボクシング ▷後楽園ホールのヒーローたち第22回:前編 内藤大助
プロボクシング元WBC世界フライ級チャンピオンの内藤大助(50)が東京・亀戸にボクシングを中心とするフィットネスジム「EL FINITO(エルフィニート)」をオープンした。2011年11月に現役引退してからは、タレント、ボクシング解説者として活動していたが、ここへ来て「やっとやりたいことが見つかった」と目を輝かせる。
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床、壁、サンドバッグ、リング―。ジム内はすべてがピカピカ。心機一転、再出発と決め込む城で、内藤はこう話した。
「やりたいことがやっと見つかりました。このジムで勝負をかけます」
引退から14年、たどり着いた先は、ボクシングを中心としたジム経営だった。構想は5年前からあった。プロボクサーで元世界チャンピオン。ジムをやりたいが、「ジム=プロ」という固定観念があった。しかし、元ボクサーたちがジムをオープンする際、プロ協会には加盟せずにアマチュア専門とするジムも多く、内藤もその考えに賛同した。物件を探している最中に新型コロナウイルス感染症が蔓延(まんえん)。
「スポンサーなどはいません。すべて自分ひとりでやっています」
ジムには約3000万円を費やし、自己資金で足りない分は借金をした。「ボクシングをやったことで、これまでやってこれた。ボクシングが好きで、教えるのも好き。それを思えば、お金には代えられない」という。
現役時代、日本チャンピオンになる前までは、むしろ不名誉な記録で名が知れ渡った。2002年4月19日、敵地タイでWBC世界フライ級王者ポンサクレック・ウォンジョンカム(タイ)に挑戦したが、1回34秒KO負け。チャンピオンの左フックをまともに食らい、大の字になり失神した。この34秒KO負けは、世界フライ級タイトルマッチ史上最短のKOタイム。この時ついたニックネームは「日本の恥」という屈辱的なものだった。
その後、日本王座を獲得すると、内藤の名はより多くの人に知られることになる。当時、その言動すべてが注目を集め、日本ランカーになっていた亀田興毅(元世界3階級制覇王者)は、内藤を「弱い」と発言。これを受け内藤は対戦を呼びかけたが、興毅はけんもほろろに拒否。次に内藤は自身が容姿の似ているお笑いタレント波田陽区の持ちネタ「ギター侍」に扮(ふん)し、「亀田君、たまには日本人とやろうよ…斬り」というポスターを作り、亀田陣営を挑発した。07年7月、ポンサクレックと3度目の対戦でタイトル奪取に成功。悲願だった世界王者になると「向こう(亀田)が対戦したいと言ってくるまで待つ」と口にすると、興毅も「いつでもやってやる」と応戦。しかし、蓋を開ければ初防衛戦(07年10月)の相手は興毅ではなく、次男の大毅(元世界2階級制覇王者)だった。
試合前には丁々発止やり合った。大毅の挑発に内藤はこう切り返した。「亀田が負ける姿を見たい人がたくさんいる。国民の期待に応えたい」。試合はサミングをされても、投げ飛ばされても屈せず3―0の判定勝ち。
「引退して間もない頃は芸能の仕事でスケジュールがびっしり埋まっていた。バラエティー番組で自分が何かしゃべると笑いが起きる。『あれっ、俺って結構ウケるじゃん』みたいな感覚があった」と自らを過大評価するが、それもすぐに違和感となった。
「色々な番組に出る中で、何であの人がウケてるのかを研究し始めたんです。考えれば考えるほど、自分が言ったことに笑ってくれたのではなく、自分の言葉を拾ってくれた司会者の言葉にみんなが笑っていることに気付いたんです。
壁にぶち当たった。話術のない内藤は、何か新しいキャラを確立しようと、突然、女性の言葉を使うオネエキャラにも挑戦した。これも瞬間的にはインパクトを残すが、程なくしてお蔵入りとなった。
「正直、今は芸能の仕事はほぼない状態。この仕事を始めた時にも思っていましたが、最後まで芸能界で食べていけるとは思っていなかった。芸能界もボクシング界も一緒で才能の世界。人間は食べていかなければならない。自分に合った道を探し、そこに進むべきなんです」
悩んだ。何かやらねばと試行錯誤するが、答えは簡単には出てこない。
◆内藤 大助(ないとう・だいすけ) 1974年8月30日、北海道・虻田郡豊浦町生まれ。高校卒業後に上京してボクシングを始める。96年10月にプロデビュー。全日本フライ級新人王となり、日本同級王座、東洋太平洋同級王座も獲得。2007年7月にWBC世界同級王者ポンサクレック(タイ)と3度目の対戦で判定勝ちしタイトル奪取に成功。5度の防衛に成功。身長163センチ。ボクシングスタイルは右ボクサーファイター。プロ戦績は36勝(23KO)3敗3分け。