阪神の球団創設90周年を記念して来日したランディ・バースさん(71)がこのほど、入団当時の監督だった安藤統男さん(86)=スポーツ報知評論家=と西宮市内で再会を果たした。10年ぶりに顔を合わせた2人は、様々な昔話を披露。

バースさんは来日1年目に直面した“解雇危機”を救ってくれた安藤さんに感謝の意を示した。

 バースさんが驚きの声を上げた。6月30日夜に行われた関係者の食事会に、サプライズで現れたのが安藤さんだった。「ワォ! 私の大好きな監督、友人だ」。球団創設80周年で来日した2015年以来、10年ぶりの再会に肩を抱き合った。

 「安藤さんと言えばpatient(忍耐強い)の印象が強いね」。来日1年目だった1983年、バースさんはオープン戦で死球を受けて左手首を骨折し、開幕から15打席ノーヒットと苦しんだ。前半戦を終え、9本塁打。球団はシーズン途中に先発候補のオルセンを獲得し、外国人枠の兼ね合いで助っ人野手の1人を自由契約にする必要性に迫られた。

 当時、球団の空気を察知したバースさんは監督室のドアをたたき「私は満足な成績を残せていない。契約を打ち切ってもらっても大丈夫だ」と悲壮な覚悟を告げた。だが、安藤さんは首を横に振った。

「ランディの長打力が必要だ。後半戦は必ず打つ」。終わってみれば2割8分8厘、35本塁打、83打点。指揮官の決断が85、86年の連続3冠王、球団初の日本一につながった。

 安藤さんはバースさんの打撃だけでなく、人間性を評価していた。「バースは箸でうどんを食べるし、川藤とは将棋を指していた。日本文化に溶け込む姿勢がすごかった。言い方は悪いが、日本をなめている外国人選手も見てきた」。メジャー経験豊富なある助っ人が、マイナー出身の同僚にスパイクを磨かせていた時はがく然としたという。様々な外国人選手と接してきたなかで、チームメート、スタッフと溶け込むバースさんの献身的な姿勢を何よりも買っていた。

 安藤さんは84年限りで監督を退いたが、親交は続いた。85年オフには毎日放送のスタッフと米オクラホマ州のバース宅を訪問。

日本一フィーバーが過熱し、取材が殺到して困惑していた3冠王も「安藤さんの申し出なら」とインタビューに応じた。

 「アメリカン・イーグルという小さな小型機に乗って、オクラホマのロートンまで行ったのを覚えている。バースの自宅の牧場が壮大で、色々案内してもらってな。私と同世代のお母さんが本当に優しい方だった」。84年のシーズン中盤にバースさんは父・フレッドさんが危篤状態に陥ったため、帰国。「『あの時、息子を帰らせてくれてありがとうございました』と何度も言われてな。和の心を持っておられた」。母・トニーさん(89)が今も健在だと聞くと、安藤さんは目を赤らめた。

 86歳の安藤さんは「ランディと話していたら、2歳は若返ったよ。これで会うのは最後かもしれないが、感謝を伝えられて良かった」と握手を交わすと、バースさんは「100周年のイベントに呼んでもらえたらと思っているし、またその時に会いましょう」と笑みを浮かべた。固く結ばれた師弟の絆は40年を越えても色あせていない。(表 洋介)

 ◆ランディ・バース(Randy Bass)1954年3月13日、米国オクラホマ州出身。

71歳。ツインズで77年にメジャー昇格。パドレスなど米6年間で130試合に出場し、69安打、9本塁打、42打点、打率2割1分2厘。83年に阪神入り。85、86年に3冠王。85年はシーズン、日本シリーズともにMVP。86年の打率3割8分9厘はNPB最高。88年に長男の病気などを契機に退団して引退。日本6年間で614試合に出場し、743安打、202本塁打、486打点、打率3割3分7厘。2001年からロートン市議会議員、04~19年はオクラホマ州議会議員。23年に日本野球殿堂入り。

  ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。

86歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

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