空手家・佐竹雅昭(60)が今年、格闘家人生45年を迎えた。その実力と人気で1990年代に人気が沸騰した立ち技系格闘技イベント「K―1」を生み出したレジェンド。

スポーツ報知は現在の格闘技人気につながる礎を築いた佐竹を取材。空手家人生を代表する「十番勝負」を連載する。九番勝負は「PRIDE」マーク・コールマン戦。

 1999年10月5日、大阪ドーム。「K―1グランプリ」開幕戦でジムの会長がジャッジ2人を務める異常な試合となった武蔵戦で判定負けし「こんなところにいると人生にとってロクなことはない」とK―1を去った佐竹。離脱を表明した直後に格闘技、プロレス団体からオファーが殺到した。

 「おかげさまでありがたいことに格闘技、プロレス…いろんな団体から声がかかりました。そういう話し合いの中でK―1サイドが『佐竹は使うな』と言い回っていたことも耳に入ってきました。でも、僕にお声をかけていただいた方々は『K―1から使うなって言われましたけど、そんなの関係ないからウチに来てよ』と言っていただきました。人間の心理として『使うな』言われれば、逆に使いたくなるものなんです。そんな心理も分からないのは完全に裸の王様でK―1という団体は先が長くないな、と思いました」

 複数のオファーから選択したリングが総合格闘技イベント「PRIDE」だった。PRIDEは1997年10月11日に東京ドームで第1回大会を開催。

当初は、プロレスラーの高田延彦とヒクソン・グレイシーが対戦するための大会だったが98年からは定期的に興行を行い、佐竹がK―1を離脱した99年はプロレスラーの桜庭和志が勝利を重ね人気が急上昇していた。

 「声をかけていただいたのが谷川貞治さんと柳沢忠之さん。2人はローデスという編集プロダクションを経営していましたが谷川さんがK―1プロデューサーで柳沢さんがPRIDEプロデューサーを務めて、共にマッチメイクを担当していました。2人ともいろんな面でバランスをはかるプロでとても話しやすかったですね。K―1をやめてタイミングも良かったですし、PRIDEへ行くことを決めました」

 前田日明率いる「リングス」時代でも多少の経験と練習は積んでいたが寝技がある総合格闘技への本格挑戦は初めてだった。練習は都内の高田が主宰する「高田道場」で行った。

 「総合の練習は楽しかったですよ。メニューはスパーリングだけでしたけど、高田さん、桜庭、ドン・フライともスパーやりましたね。リングス時代に寝技は、かじっていたんで、極めるポイントとか理論はわかりました。」

 初陣は、2000年1月30日、東京ドーム。PRIDEの初代王者を決める16人の選手による無差別級グランプリだった。15分1回戦の全8試合は、以下の通りだった。

ゲーリー・グッドリッジ×大刀光

小路晃×エベンゼール・フォンテス・ブラガ ×

藤田和之×ハンス・ナイマン ×

桜庭和志×ガイ・メッツァー

イゴール・ボブチャンチン×アレクサンダー大塚

マーク・ケアー×エンセン井上

ホイス・グレイシー×高田延彦。

 佐竹の対戦相手は、マーク・コールマンだった。レスリング出身のコールマンは、米格闘技大会「UFC」で96年に2大会連続でトーナメントを制した実力者だった。試合はタックルで倒されると首を極められ、73秒で敗れた。

 「ただ、当時、34歳。格闘家として年を取っていたので寝技に慣れるのが難しかったですね。ローキックもタックルがあるからキック、空手とは打ち方がまったく違います。あのルールじゃ勝つのは至難の業でした」

 初陣で惨敗したが佐竹は「PRIDE」を主戦場に闘いを続けた。そんな中で伝説のプロレスラーとの出会いもあった。初代タイガーマスクの佐山サトルだった。佐山は、当時、「掣圏道」という新たな打撃系格闘技を創始。2000年6月11日、横浜アリーナでPRIDEとの対抗戦を行い佐竹はPRIDE軍として参戦した。

 「佐山さんとお話させていただきましたが、頭がいい方でした。

すべての物事にちゃんと理論があって方程式を持っていらっしゃった。例えば、X+Y=Zという方程式があれば、Zの答えが常人が考える許容量を超えているんです。それは、佐山さんが天才すぎるんですね。言葉に出す前に答えが出ているんです。そして、誰もがその答えに納得できるんですが、普通の人は方程式を解いている途中で佐山さんは答えを出してしまっているんです。そこが発想能力が異才を放つと言われる由縁かもしれません。そもそも考えてみてください。あの初代タイガーマスクの動き。僕は人間の動きは脳とつながっていると思います。頭が悪い人はあんな動きはできない。佐山さんは、すべてあの動きを頭でイメージできるから、あの奇抜な動きができたんです。素晴らしい方にお会いできて人生の勉強になりました」

 K―1時代には、なかった貴重な出会いが佐竹の財産だった。

(続く。敬称略。取材・書き手 福留 崇広)

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