6月3日に89歳で亡くなった長嶋茂雄さんとゆかりのある人物が明かす思い出などから、足跡をたどる長期連載の最終回は、まな弟子で巨人OB会長の中畑清氏(71)。語り尽くせない数々のエピソードの中から出会い、伝説の地獄の伊東キャンプ、コーチ時代、アテネ五輪、球界発展への思いなどについて涙ながらに振り返り、ミスターの人間味あふれる秘話も披露した。
中畑さんが長嶋さんを初めて生で見たのは福島・安積商3年の1971年10月28日。地元の郡山・開成山球場で行われた日米野球・巨人対オリオールズ戦だった。
「高校生の俺が選ばれて巨人側のバットボーイをやったんだよ。V9戦士が来て。ミスターの一つ一つの動きが格好良かったな。小学生の時からランニングシャツに墨で『3』と書いて長嶋茂雄を気取って野球をやってきて。憧れを超越した存在だから。実際に目の前にいるんだけど夢の中というか劇画の世界に感じちゃって。緊張して話しかけることもできなかった」
駒大から長嶋監督の巨人に入団も、3年目までは1軍定着できなかった。
「監督と選手の関係になっても、なかなか距離は縮まらなかった。ミスターが話しかけてくれるまでは、こっちから声はかけられない。そういう期間が長かったな。
当時の土井正三コーチから「監督に調子を聞かれたらウソでもいいから絶好調と答えろ」と言われた。
「調子が悪くても『絶好調です』と言い続けた。『何が絶好調だ、お前この野郎、あんな詰まった打球しか打てないくせに』とか言われたけど、自分から近づいて『監督! 絶好調です。使ってください』と言って。絶好調には救われたな」
迎えた4年目、79年のオフ。長嶋さんが若手を猛練習で強化した伝説の伊東キャンプに参加した。
「ノックは2時間、長嶋茂雄との対決。打撃は最低1000スイング。普通に振るんじゃなくて、低い体勢で高めのくそボールを打ち返すの。『くそボールを打てれば真ん中なんて簡単だろう』って。その後に馬場平で走り込み。坂道もある1周1キロくらいのコースをクタクタの中で5周くらい。
最終日、その馬場平でのランニング。篠塚和典(当時は利夫)に「監督やってみろ」と挑発された長嶋監督が、走った。
「俺が篠塚に言わせたんだけどね。『シノ、監督を走らせろ』って。1周走りきってヘトヘトの長嶋茂雄をみんなで迎え入れた。神様が俺たちのところ降りてきた瞬間だった。朝から晩まで野球に没頭した伊東キャンプは人生の宝物だな」
雲の上の存在だった長嶋さんに親近感がわいた逸話は忘れられないという。
「長嶋さんは女優の栗原小巻さんの大ファンだったと。現役の時、ロッカーで栗原さんが表紙の週刊誌に『おー』とか言いながら顔こすりつけてたんだって。自分で言ってた。かぶりつくように。週刊誌くしゃくしゃだよって。
長嶋さんも人間だった。人間くさい一面を見たり聞いたりして、ミスター愛がさらに深まった。
「自然児だよな。女性の前に行くと気取ってポーズ取ったり足くんだりさ。俺とあんまり変わらないなって親しみを感じて。周りを楽しませるために演出していたとは思うけど、そういう長嶋茂雄のベンチ裏の顔を見るのが好きだった」
現役引退後、長嶋さんが監督復帰した93年から2年間、打撃コーチを務めた。
「(94年9月7日の横浜戦で)原(辰徳)に代打・一茂(息子の長嶋一茂)を送ったのは俺が進言したんだけど。原の調子が悪くてあえて活を入れるために。監督は『一茂で本当に大丈夫か…』って感じだったけど『監督、確率は5割ありますから』と説明して(結果は三ゴロ)。打つか打たないかでしょ。そしたら『おう、そうだな』って」
その年は同率首位で迎えた最終戦、ナゴヤ球場での中日との伝説の10・8決戦を制して優勝した。
「前日は今中(慎二)対策のミーティングをじっくり1時間やった。
◆中畑 清(なかはた・きよし)1954年1月6日、福島県生まれ。71歳。安積商(現・帝京安積)から駒大を経て75年ドラフト3位で巨人入団。通算14年間で1248試合出場、1294安打、打率2割9分、171本塁打、621打点。82年から7年連続一塁手でゴールデン・グラブ賞。89年に現役引退。93、94年巨人打撃コーチ。










![Yuzuru Hanyu ICE STORY 2023 “GIFT” at Tokyo Dome [Blu-ray]](https://m.media-amazon.com/images/I/41Bs8QS7x7L._SL500_.jpg)
![熱闘甲子園2024 ~第106回大会 48試合完全収録~ [DVD]](https://m.media-amazon.com/images/I/31qkTQrSuML._SL500_.jpg)