6月3日に89歳で亡くなった長嶋茂雄さんとゆかりのある人物が明かす思い出などから、足跡をたどる長期連載の最終回は、まな弟子で巨人OB会長の中畑清氏(71)。語り尽くせない数々のエピソードの中から出会い、伝説の地獄の伊東キャンプ、コーチ時代、アテネ五輪、球界発展への思いなどについて涙ながらに振り返り、ミスターの人間味あふれる秘話も披露した。

(取材・構成=片岡 優帆)

 04年アテネ五輪に向けた長嶋ジャパンで中畑さんはヘッドコーチを務めた。03年11月、札幌Dでのアジア予選は3戦全勝で突破したが、その裏では、すさまじい重圧を感じていた。

 「監督室に帰って、ユニホーム脱ぎながら『なあキヨシ、これがプレッシャーなんだな』って。普段『プレッシャーはエンジョイしなさい』と言う人がさ。見たことない姿だった。あの人は日の丸に対して異常なほどの忠誠心があった」

 大会直前の04年3月、長嶋さんが脳梗塞(こうそく)に倒れてアテネ行きを断念。本大会は中畑さんが代わりに指揮をとった。

 「(大会中は)一日中、体にしびれを感じて震えが止まらなかった。プレッシャーのかたまりだった。あんな経験をしたのは初めて。熟睡したことない。次の日が怖くて」

 銅メダルを獲得して帰国後、成田市内のホテルで出迎えてくれた長嶋さんに直接、報告した。

「ありがとう」のひと言が胸に響いた。

 「すまないなと思った。俺の力不足で銅メダルに終わって。オヤジがやってたら金メダルだったと思う。最後までやらせてあげたかった。それは悔しいよ」

 当時のことを話す中畑さんの目は潤んでいた。涙ながらに、長嶋さんの日の丸への思いを回想した。

 「野球界の伝道師をつくりたいんだという使命感。日の丸をつけた長嶋ジャパンで世界一になって、日本の野球はすごいんだよって見せたかったんだと思う。そこまで日本の野球は成長してますよって誇示したかった。そのプレッシャーのかたまりだったと思うよ」

 もう一回、長嶋さんとじっくり話せるとしたら…。

 「野球界はとんでもない世界になってきてますねって。

大谷翔平という化け物が出てきて、世界一になりたいと長嶋茂雄が思った、その代表的な選手が出てきてくれましたよって。今年の3月に東京ドームで最後に一緒に撮った記念写真も良かったんじゃないかな。長嶋さんは大谷翔平と写真を撮りたかったんだよ。だからうれしそうだったでしょ。その思いが大谷に伝わってればいいけどね」

 悲しみに包まれた訃報(ふほう)から数か月後、知人のコンサートに飛び入り参加して秋川雅史の「千の風になって」を歌った。

 「みんなも同じ気持ちになってほしいなと思って。俺は今も、このへんに(自分のそばに)いると思っているから」

 中畑さんが自ら「一番かわいがってもらった」と自負する強固な師弟関係。今後はその思いを継承する。

 「あれだけ大病した姿を世間にさらけ出しても、同じ病に倒れている人に、これだけ頑張れるんですよって見せ続けるってできないよ。スーパースターが。あれが長嶋茂雄の生きざまなんだよな。見せることを第一に考えて最後までやり通した。

俺は素晴らしい人を手本としてきて良かった。これからも、だよな」

 ありがとうミスター。長嶋茂雄は永久に不滅です。

 ◆中畑 清(なかはた・きよし)1954年1月6日、福島県生まれ。71歳。安積商(現・帝京安積)から駒大を経て75年ドラフト3位で巨人入団。通算14年間で1248試合出場、1294安打、打率2割9分、171本塁打、621打点。82年から7年連続一塁手でゴールデン・グラブ賞。89年に現役引退。93、94年巨人打撃コーチ。04年アテネ五輪で日本代表ヘッド兼打撃コーチとして銅メダル。11年12月にDeNA初代監督就任。

監督通算4年間で239勝319敗17分け。現巨人OB会長。右投右打。

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