菅義偉元首相は17日、横浜市内で会見し、次期衆院選に出馬せず、政界を引退すると表明した。

 以下、報道陣とのやりとり。

 菅義偉氏「皆さん、おはようございます。予定されております今度の衆議院選挙、不出馬を決めまして、若い世代に変わってもらえるように考えているところであります。後援会を中心に打ち合わせをさせていただきました」

 ―引退の理由は

 「現在、77歳であります。70代になってから、政治家としての引き際というものを常に考えていまして、前回の衆議院選挙(2024年10月)の時にも悩んだ時期がありました。今回は、喜寿(77歳)を迎える中で、後進に道を譲るということを真剣に考えておりまして、そのことを実行するということであります」

 「政治生活について、この横浜で市会議員を経験し、官房長官、総理大臣をさせていただきました。そうしたことを踏まえ、次の世代にそうした経験というものを活かすことができればな、という思いであります」

 ―政治家とはどうあるべきか

 「よく、私は『国民のための政治』と言ってましたけども『何をやるのか』、万が一できなければできない理由というものを明確に説明をしていく。とにかく、形にして、そのことを見てもらうのが政治家として一番の役割だと思っています。しかし、できない場合は、できない理由というものを、やはりきちんと説明をして理解をしてもらう。そうしたことを常に行うことの大切さというものを、頭の中に入れながら取り組んできました」

 「それと、印象に残ったことですが、やはり新型コロナ対策というのが、私にとってみれば、一つあります。政治家として一番は収束させるために、決断をしたことです。自分を鼓舞するために『1日100万回を接種をする』と。そうしたことを内閣総理大臣として、国民の皆様に約束した。

実行に移したことで、コロナは収束をしたと思います。その時の決断をするまでのことが、やはり一番印象に残っていました」

 ―秋田で生まれ、横浜市で政治家になった。思い出は?

 「何もないところで私を育ててくれたのが、この横浜の皆さんです。感謝をして、感謝をしても、しきれないほどの皆さんです。今日集まってくれた方は、私がゼロからスタートをした時に、期待をして育ててくれた方ばかりであります」

 ★政治家としての歩み

 菅氏は秋田県でイチゴ農家の長男として生まれた。「背番号3」に憧れ、野球に打ち込み、高校卒業後に集団就職で上京。法政大へ進学し、報知新聞社では当時「坊や」と呼んだアルバイトや都内の段ボール工場などで働きながら、空手部では厳しい練習にも耐えた。「忍耐力含めて政治の世界でも生きた」と振り返った。

 卒業後、小此木彦三郎通産相の秘書を11年務めた後、1987年、横浜市議に初当選した。地盤、看板、カバンもなく、1日300件のあいさつ回りなどをこなした。箱根駅伝開催中も沿道のファンにあいさつをしてまわったこともある。

 国政へ転じたのは96年の衆院選(神奈川2区)。

自民党内では政策通として知られ、北朝鮮による拉致問題にも積極的に取り組んだ。2006年の第1次安倍内閣で総務相として初入閣。自身の地方出身の経験を踏まえた「ふるさと納税」制度の創設を主導した。

 09年の民主党への政権交代の際も小泉進次郎氏、河野太郎氏とともに議席を死守した。2012年第2次安倍政権発足に伴い、内閣官房長官に就任。インバウンド拡大や危機管理の司令塔となった。19年4月には新元号「令和」を発表した。大きな注目を浴び、「令和おじさん」として親しまれた。

 20年9月、安倍元首相の辞任に伴い、首相に就任。在任中は「行政の縦割り打破」を掲げ、デジタル庁を発足させたほか、不妊治療の保険適用への道筋をつけた。新型コロナウイルス対応では、1日100万回のワクチン接種体制を整備。1年延期となった東京五輪・パラリンピック開催に尽力した。

大会は成功に終わったが、感染拡大による批判の高まりを受け在任384日で辞任した。小選挙区での当選は10回を数えた。

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