プロレスラーのジャガー横田(64)が今月24日に後楽園ホールで「デビュー50周年記念大会~結集~」を開催する。

 中学を卒業し全日本女子プロレスに入門。

1977年6月28日にデビューした。86年2月15日に引退も95年1月4日に復帰。以後、様々な団体に参戦し現在はワールド女子プロレス・ディアナに所属する戦い続けた50年。ジャガーはこのほど、スポーツ報知の取材に応じ激動の半世紀を回想した。

 15歳で入門した全日本女子プロレス。当時は、ジャッキー佐藤&マキ上田の「ビューティ・ペアー」が人気絶頂だった。客席からは華やかに見えたリングの裏側は、過酷なサバイバルだった。

 「負けたらやめなきゃいけない。負けられないと思っていました。だから、ただ、ひたすらにがむしゃらに勝てばいいと思ってやっていました」

 

 身長160センチ、体重は60キロに届かなかった。小柄な自分が生き残るためには「勝つ」以外に方法はなかった。壁にぶち当たっても打ち明ける相手はいなかった。

 「他の人に相談なんかできません。全員、敵ですから。だから自分との闘いでした。自分に負けたら終わりでした。辞めていく人もいましたが、言い方は厳しいですけど、みんな自分に負けたから辞めたと思っていました」

 ジャガー自身は辞めることを考えたことはなかった。

 「1回も辞めようと思ったことはありません。なぜなら、中学を卒業して入って辞めたら他に行くところがないわけです。だから、ここに残るしかない。ここでどうにかならないといけないと言い聞かせていました。10代の私はクビにならないようにしなきゃと思って過ごしていました。振り返ると全女時代は気が抜けない毎日でした。だからこそ努力できました」

 

 強さを磨きデビューから3年後の80年1月に全日本ジュニアの初代王者に輝いた。

18歳だった。

 「全日本ジュニアのベルトを巻いてチャンスをいただきましたが、これを本物にしなきゃ辞めないといけないと思っていました。ずっと全女時代はそうでした。気の休まる時がない。だけど、16歳から常に追い込んできて、それが普通でしたから辛くも何ともありませんでした」

 運命の勝負が来る。1981年2月25日、横浜文化体育館。入団前から憧れ、付け人を務めていた師匠とも言えるジャッキー佐藤と対戦した。当時のリングネームは「横田利美」。師匠のWWWA世界王座へ挑んだ一戦は、押さえ込みでジャガーが勝った。

 「たまたま私が勝てたからベルトを腰に巻いたけど、そこからが大変でした。例えば、あの試合が終わってから私とジャッキーさんがタッグを組むことがありました。チャンピオンではないけどジャッキーさんが偉大な方であることは変わりないわけです。

だけど、タッグを組むとチャンピオンは私だから、リングアナのコールは私が後になるんですね。“ジャッキー佐藤”ってコールすると会場は、キャァーって大歓声が沸くわけです。その後に“横田利美”ってコールされると、会場はシーンとなるんですね。当時は年間300試合ありましたから、これが全国どこへ行ってもです。人気は仕方ないんですが、コールに象徴されるようにジャッキーさんより上の立場になることが重くて重くて仕方なかったです。ベルトを巻く前は、チャンピオンになることがすごいことだとずっと思ってたけど、それだけじゃないんだなと感じたこともありました」

 頂点に立った重圧で体調に異変が起きた。

 「ジャッキーさんに勝ったことは当時の私には重たすぎました。ベルトを返したかったほどです。勝ったけどジャッキーさんを超えることなんてできなかった。それで食べられなくなって10キロやせました。60キロぐらいから50キロ切りました。だけど、試合では負けたらやめなきゃいけないと思ってましたから、負けられないと必死でした。

そんな葛藤も誰にも言えず自分で考えるだけでした。防衛戦の前は特に食べられなくて精神的にも体力的にも防衛していくことが大変でした」

 全日本女子は、松永高司が社長を務め兄弟が運営する同族会社だった。悩みや、苦しみを「松永兄弟」に打ち明けることもできなかった。

 「松永兄弟にも相談しませんでした。あの方たちは、みんなの社長でありマネジャーですから自分が独占することはできませんでした。だから、すべて自分の中で消化しました」

 今、ジャッキーに勝ったビデオを見ると気がつくことがある。

 「勝った瞬間に気まずい顔をしているんです。ベルトを取った!っていう喜びじゃなくて取ってしまった…勝ったことへのバツの悪さがあったんでしょうね。もちろん、勝った安堵感もありましたが、あの試合から45年もたっているのにあの時の気持ちはまだ覚えています。それがあるから今の自分があるんです」

 王座は連続7回防衛し、1度、奪われるも4度防衛し引退を表明した85年12月に返上した。ジャガーは、自らの決意通り「負けない」女王としてリングに君臨した。

孤独な防衛ロードを支えたのは、ゴールが決まっていたからだった。当時の全日本女子は、25歳になったら引退する「25歳定年制」が暗黙の了解として定められていた。

 「あの当時は、こんなにやるとは思ってませんから。定年制があったからそこまで頑張ればと思っていました。ゴールが見えて、限りがあるからそこまで頑張ればいいと思ってましたから、何とかリングに上がり続けられました」

 さらにベルトを守り続けられたのは後輩の存在が大きかった。それがデビル雅美だった。1年後輩のデビルは身長168センチ、体重90キロと恵まれた体格とパワー、圧倒的な存在感でジャガーの牙城に迫っていた。

 

 「デビルは、すごい実力があったから負けないように頑張らないとダメだと思っていました。デビルとの試合は、彼女が体が大きいからきつかったです。彼女がいてくれたから私は頑張り通せました」

 86年2月15日、川崎市体育館での引退試合もデビル雅美が相手だった。24歳での引退した理由を明かす。

 「20歳の時に彼氏ができて。

辞めて結婚すればいいかなぁと思ったんですよね」

 95年1月に復帰。04年には医師の木下博勝さんと結婚、06年11月には“JJ”こと木下大維志くんを出産した。

 「結婚して出産して今も現役。私はすべてのものをモノにしている。こんな幸運な人はレスラーとしていないと思います」

 ジャガーは「プロレスは人生のすべて」と明かす。象徴的な伝説がある。大維志くんの妊娠が分かった後、決まっていた5試合をリングで戦ったのだ。流産の危険もあったがジャガーは決意していた。

 「妊娠が分かったんですけど、約束していた5試合が決まっていたからリングに上がりました。その時、私はおなかの子に伝えたんです。“私はあなたと出会う前にプロレスと出会っていたからやるよ”と。プロレスは私のすべてなんです」

 万感の50周年記念大会。ジャガーは尾崎魔弓、アジャコングと組んでスターライト・キッド、星来芽依、ウナギ・サヤカと対戦する。

 「歴史と今のぶつかり合い。私のプロレス人生をかえてくれた教え子のアジャ。ギネス世界記録(2023年8月に「タッグチームプロレスリングチャンピオンシップを優勝した最高齢ペア(女性)」)になった尾崎と組んで、今の時代を担う選手と対戦する。どういう試合になるのか想像もつかないけど、ひと口に古いから、おばさんだからで片付かないような試合にしたい。若い子には若い子のプロレスがある。私には私のプロレスがある。だけど、今の時代を生きているから私が若い子に挑戦する試合になります」

 6月28日に64歳になった。デビュー50年、そして還暦を超えても第一線で戦える理由を「大きなケガがなかったことが第一」と明かし、こう明かした。

 「プロレスは、言葉は悪いけど飽きることなく追求し続けられる。同じ試合は同じ相手ともできないですから。それが魅力。常によりいい試合をしていくためもっともっと…と思う。お客さんに喜んでもらえる試合って答えが出ないんです。これが1+1が2だったら面白くないと思う。何が正解かわからないから面白い。そこが追求できるし満足しない。満足しちゃいけない」

 最後にこれからのプロレスラーへメッセージを送った。

 「あなた自身は人と同じではない。唯一の1人にならないといけない。それを自覚しなきゃいけない。そのために努力してほしい」

(敬称略。福留 崇広)

 ◆デビュー50周年大会 スペシャルゲスト

マキ上田、長与千種、ライオネス飛鳥、ジャンボ堀、小峯広子、高階由利子【ジャガー横田同期】縞せい子、小宮山忠子

 ◆7・24後楽園全対戦カード

 ▼メインイベント ジャガー横田デビュー50周年記念試合~ライジング・スターズ~ 6人タッグマッチ60分一本勝負 

ジャガー横田&尾崎魔弓&アジャコング vs スターライト・キッド&星来芽依&ウナギ・サヤカ

 ▼セミファイナル 10年ぶりの対戦が実現!チェイス・ザ・太陽神 シングルマッチ30分一本勝負

Sareee vs 優華

 ▼第3試合 全女タッグチャンピオンズマッチ タッグマッチ30分1本勝負

堀田祐美子&井上貴子 vs 伊藤薫&渡辺智子

 ▼第2試合 Hey尻, what`s strong? タッグマッチ30分一本勝負

越中詩朗、間下隼人 vs 黒潮TOKYOジャパン、小川彪

 ▼第1試合 アルテミス・ロワイヤル選手権試合 変則ルールバトルロイヤル

王者・AKINO vs 挑戦者・KAZUKI、藪下めぐみ、水波綾、ラム会長、夏実もち、関口翔、花穂ノ利、叶ミク、風南ユキ

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