給食サービス事業などを展開するシダックスの創業者で、顧問の志太勤(しだ・つとむ)氏が7月9日23時13分に、うっ血性心不全で死去した。90歳。
通夜・告別式は近親者のみで行った。後日、「お別れの会」を開催する予定だ。
静岡県出身。1959年に「富士給食」の屋号で創業。東京都調布市の企業内工場の食事提供を皮切りに、学生食堂や都心の高層ビルの食堂を次々と受託。高度経済成長期の働き手を食の力で支えた。1970年代初期には、日本で初めて、食堂利用者が複数の料理から自分の好きなものを選んで食事をする「カフェテリア方式」の食堂を作る。
おいしさだけでなく、楽しく、健康的な食堂の草分け的存在となった。アスリート食や病院・介護施設など様々な場所の給食事業も展開。さらには、コンビニエンス向け中食事業やレストランカラオケ事業など、新事業も手掛け全国に展開。日本のフードサービスを大きく成長させた。
1980年には、西ドイツの企業と業務提携を行い、冷凍食品の開発を進め、スタッフ1人でも必要最低限のオペレーションで食事が提供できるシステムを作り上げる。
省力化・省人化の取組の先駆者でもあった。
卓越したビジネスマンであるとともに、シダックス軟式野球部はじめ社会貢献活動も行った。また、ベンチャー企業に資金や経営ノウハウを支援する「志太ファンド」の設立や、ベンチャー企業支援のための人材育成機関として「志太起業塾」を開校するなど、後進の育成も行った。
2019年末のインタビューで、仕事の原点を尋ねると、母親の存在があがった。
「私の商売の原点は母親でした。元教員である私の母は、戦後、文房具店を開きますが、その中で、わらぞうりで学校に通う子どもに靴を履かせたいと考えます。母は学校の先生に子どもの足の大きさなどを確認してもらい、韮山から上京。闇市で軍隊のテントのキレを見つけ出し材料を調達。家の近くにある軍靴を作る靴屋にそのキレで子どもの靴を作るよう外注して学校に販売し、利益を先生と折半にしました」。
「当時は終戦間もない頃で、先生も黒板や教材などが十分にない時代。利益を半々にすることで先生の協力を得ることができ、仕事がうまくいきます。協力し合うことで、子ども、先生、母と、皆が満足する仕組みを作ることができました。
そんな母の姿を見て私は育ち、自分だけが儲けてはいけない、相手も得をしなくては、仕事はうまくいかないことを知りました。商売はお互いに利益を分かち合うことが重要です」。
また、仕事において大切にしていることを尋ねると、「目の前の仕事に集中して、全力で取り組むことが大事です。時代が変われば、ビジネスの環境が変わり、望まれる仕事の内容もやり方も変わります。どのような状況に置かれても、与えられた仕事をしっかりやる責任感を持ち、同時に時代の流れを着実にみていくことが重要となります」と述べた。
また、「チャンスは多くありますので、時代の変化に常にアンテナを張っていなければなりません。そして目の前にチャンスが訪れた時、どう対応するかによってその人の人生が決まります。対応は4通り。①チャンスに気付かない人②気付いても動かない人③ただ動くだけの人④動いて自分のモノにする人――。このうち、④の人にならなければなりません」と補足した。
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