TBSラジオで毎週土曜日、午後1時から放送している「久米宏 ラジオなんですけど」。
9月29日(土)放送のゲストコーナー「今週のスポットライト」では、かつてプロ野球・埼玉西武ライオンズで主砲を務めたG.G.佐藤こと、佐藤隆彦さんをお迎えしました。
佐藤さんは1978年、千葉県市川市生まれ。中学時代は、野村沙知代さん(野村克也さんの奥様)がオーナーを務めた野球チーム「港東ムース」で鍛えられ、そこから桐蔭学園高校、法政大学と野球の名門に進みます。でもいずれもレギュラーはつかめませんでした。プロ野球のドラフトでも声がかからなかったため、アメリカに渡ってマイナーリーグ(その中でもいちばん下の1A)に挑戦しますが、3年でクビに。それでもあきらめず、帰国して西武の入団テストを受けると、見事、合格。2003年秋にドラフト7位で指名を受けて入団。3年間は1軍と2軍を行ったり来たりでしたが、4年目の2007年からレギュラーに定着してホームランを量産。翌2008年には北京オリンピック日本代表のメンバーにも選ばれました。
プロ野球時代の登録名「G.G.」の由来は「ジジイ」。中学時代、野村沙知代さんに「ジジイじゃないんだから、しゃきっとしろ!」と言われてから、あだ名がジジイになったそうです。今、営業先で本名を言っただけでは気づかれず、「G.G.佐藤です」と言うとみなさん「そうなんだ!」とすぐ思い出してくれるそうです。

「佐藤さんの『妄想のすすめ』という本を読みましたけど、佐藤さんのお父さんがえらい方ですね。佐藤さんが生まれる2年前に独立して、今の地盤調査会社を始めて、とても忙しかったのに、毎朝一緒に野球の練習をしてくれたんですね」(久米さん)
「父がよく言うんですけど、3歳の私に向かってボールを転がしたら、ものの見事にさばいたそうなんです。それを見た瞬間、この子は将来、プロ野球選手になるって思いこんだんです。母親に『佐藤家にとんでもない子が授かった!』と言ったらしいです(笑)。そこから父との二人三脚が始まりました」(佐藤さん)
中学、高校、大学となかなかレギュラーになれなかった佐藤さん。
「それでもお父さんはまだ、こいつはプロになれると思ってたみたい?」(久米さん)
「実は、大学を卒業したときに母親が父に『あなたはうそつきね』って言ったんです。『私の子供、プロ野球選手にならなかったじゃない』って。そうしたら父が『ばかやろう。この子は必ずプロ野球選手になるから、いまに見てろ』と言って、母に一筆書かせたんです。『息子がプロに行ったら、私はいつも三つ指ついてあなたをお迎えいたします』って(笑)。そのぐらい父は、当時、誰もプロに行けると思っていなかった私のことを信じてくれていましたね」(佐藤さん)。
ドラフトにかからなかった佐藤さんは、あきらめるどころか、なんとメジャーリーガーを目指してアメリカに渡ったのです。すごい発想の転換です。2001年、あのイチローがアメリカに行ったのと同じ年でした。日本中がイチローの挑戦に注目するなか、佐藤さんは「日本人野手のメジャーリーガー1号になるのは、オレだ!」という気持ちだったそうです。

「この番組にはメジャーリーグの審判を目指してアメリカで挑戦した平林岳さんにも来ていただいたんですけど、マイナーリーグでは審判も選手も給料は安いし、試合が終わるとみんな自分たちでクルマに乗り込んで長距離を移動しなくちゃいけないし、食事は毎日ハンバーガーばっかりだし、とにかく大変だって話していました。
「あれはキツかったですね(笑)。月曜日はマクドナルド、火曜日はウェンディーズ、水曜日はケンタッキーフライドチキン…みたいな感じで、1週間オール・ファストフードです」(佐藤さん)。
「それでシーズンオフになるとお金がないから、日本に帰って交通整理とか警備員のアルバイト。よく頑張れましたね」(久米さん)
「やっぱり信じてくれている父の思いに応えなきゃいけないというのと、中学時代の恩師の野村克也さん(当時ヤクルトの監督)の言葉があったので」(佐藤さん)
「サッチーさんだけじゃなくて、野村監督も出てきたんですか?」
「中学の最後のときにラスボスみたいに出てきたんです(笑)。それで色紙に『念ずれば、花ひらく』と書いてくれたんです。夢や目標は思い続ければ必ず叶う。叶わなかった人は途中であきらめてしまった人だ、と。野球をやめようとした瞬間は何度もあったんですけど、そのたびに野村監督のその言葉が浮かんできて、あと1回だけやってみよう、この一瞬だけ頑張ってみよう、その繰り返しでやってきました」(佐藤さん)
夢を追い続けた佐藤さんは、2014年に現役を引退。引退後は野球とは全く違う道を選び、父親の会社で働こうときめていました。それはやはり感謝の気持ちが大きいと言います。

「父がいなければアメリカで挑戦することも、イタリアの野球リーグでプレーすることも、36歳まで野球を続けることもできなかったと思います。その恩返しに何ができるかと考えたときに、父がいちばん大切にしているものを守りたいと思ったんです。
そのトヨタ・クラウンはいまも佐藤さんが営業の仕事で使っていて、走行距離は23万キロを超えているそうです。

「お父さんは佐藤さんが会社に入って以降、元プロ野球選手をたくさん採用しているんですよね。しかもトラバースには野球部もあります。それって、ズルくないですか(笑)。
「元プロ野球選手はいま6人ぐらいいます(笑)」(佐藤さん)
「それはズルいなあ!」(久米さん)
「仕事で一緒になるハウスメーカーさんも野球チームを持っていて、試合をやろうということも多いんですね。だから営業ツールとして野球が役立っています。フライが来たときにちょっと落球するとすごく喜ばれるので、〝落とし芸〟というか、〝落とし営業〟をしているんです(笑)」(佐藤さん)
北京オリンピックのときに「世紀の大エラー」とマスコミに叩かれて、一時は「死にたい」と弱音も吐いたという佐藤さんですが、いまではそれをしっかり営業につなげていたとは! 転んでもただでは起きないというか、落としてもただでは起きないポジティブさに久米さんも脱帽でした今回は野球のエピソードを伺っているうちにあっという間に時間が来てしまいましたので、いつかぜひ地盤調査・地盤改良のお話もお聞きしたいですね。
佐藤さんのご感想
私はテレビで久米さんを見ていた世代ですから嬉しかったです。野球の話だけで25分ぐらい経ってしまったので、大丈夫かなと思いました。父親の話をけっこう掘り下げましたし、妻の話をここで出してくるかあと思いました(笑)。地盤の話をもっとしたかったですね(笑)。ありがとうございました!

◆9月29日放送分より 番組名:「久米宏 ラジオなんですけど」
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