TBSラジオで毎週土曜日、午後1時から放送している「久米宏 ラジオなんですけど」。
2月2日(土)放送のゲストコーナー「今週のスポットライト」では、今年で創立117年となる「木下サーカス」の4代目社長・木下唯志(ただし)さんをお迎えしました。
みなさんが最後にサーカスをご覧になったのはいつでしょう。10年前? はるか昔、昭和の頃? それともつい最近? 毎年どこかのサーカスを観に行っているという方はきっと少数派でしょう。1回か2回、観たことがあるだけという方が多いのではないでしょうか。「昭和のエンターテインメント」というイメージもまだ根強く残る中で、今の時代、サーカスにどのくらいの人が集まっているのでしょうか? これがなんと、年間120万人! Jリーグきっての人気チーム、浦和レッズが年間60万人(ホームゲーム)ですから、その集客力がいかにすごいか分かります。でも、ここまでいつも順風満帆だったわけではありません。むしろその反対、波瀾万丈。

木下サーカスは1902年(明治35年)に軽業一座を率いてロシアに渡って各地を回った木下唯助(木下さんの祖父)がルーツ。敗戦から高度成長期を経て、木下さんの光三さん(2代目)が大きく発展させ、姉・嘉子さんと兄・光宣さんも家業に入りました。
明治大学の経営学部で学んでいた木下さんは、将来は商社マンになって世界を飛び回りたいと夢を描いていました。というのも当時、1960~70年代はサーカス業界はかつての繁栄から斜陽の時代へと移っていたのです。かつては30~40もあった日本のサーカス団が次々に姿を消していきました。幸い兄が3代目を継いでいたので、木下さんは別の道へと進もうと考えたのです。

1990年、病に倒れた兄に代わり、40歳で4代目社長に就任。実はこの当時、木下サーカスは創立以来最大の危機を迎えていたのです。木下さんの兄・光宣さんは、サーカスの近代化を進めた父・光三さんからのバトンを受け、さらに総合エンターテインメントへ発展させようと取り組んできました。地方の時代といわれた1980年代、神戸ポートビア'80で大成功すると、その後の地方博ブームに乗ります。ところが、瀬戸大橋架橋記念博覧会での不入りで3億円の赤字をきっかけに、負債がどんどん膨らんでいったのでした。木下さんが社長を継いだときには、10億円もの負債を抱えていたのです。
それまで数々の苦難を乗り越えてきた父も、姉も税理士もみんな、もう廃業するしかないと考える中、猛然と反対したのが木下さんでした。木下さんは観客席、テントの構造・素材、プロモーション活動と、あらゆる面を改革しました。

木下さんは、サーカスの興行で大事なことは「一場所、二根(根気=営業)、三ネタ」だと言います。これは代々木下家に言い継がれてきた言葉です。何より大事なことは公演会場。興行が成功するもしないも、場所選びにかかっています。そして次が根気強い営業活動。公演会場をめぐる住民交渉に神経を十分使って、地域に喜ばれるような下地を作ることが重要です。そして公演の一年前には会場を決定し、半年前から現地事務所を設置して地元の新聞社などと組んで綿密なプロモーション活動を展開します。そして3つめに大事になるのがネタ、つまりショーです。
木下さんは「ひとりの人が人生で3回観に来てくれたらサーカスは成功」と言います。子供の頃に親に連れられてサーカスと出会い、大人になって子供ができたら家族で出かけ、さらに孫と一緒に。

木下サーカスは今も毎年、全国各地4~5ヵ所の公演を行い、年間の観客動員は驚異の120万人。これは世界でも1、2を競う数です。日本を代表する木下は、今や世界を代表するサーカスになったのです。
「もちろん、観客の数だけでなくショーの内容も世界一を目指して、日々、改革を進めています。サーカスの世界では毎年1月にモナコで、モンテカルロ国際サーカスフェスティバルという祭典が開かれています。私は今年も行ってきました。このサーカスフェスティバルで世界一になることが私の夢です」(木下さん)
木下唯志さんのご感想

久米さんにお会いしてすごく嬉しかったです。久米さんご自身、小さい頃に木下サーカスをご覧になっていて、また、今はまたどんどん変わっているということもご存知でしたね。また、『木下サーカス四代記』という本も読まれているということで、会話をしていて、私より木下サーカスに詳しいというような印象を受けました(笑)。
久米さんはお人柄がいいし、ゲストをすごく大切にされているし、温かいものをすごく感じました。木下サーカスが世界一を目指して頑張っていることをとても応援していただいているという感じがしました。

◆1月26日放送分より 番組名:「久米宏 ラジオなんですけど」
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