TBSラジオで平日15時30分から放送中の「ACTION」。火曜パーソナリティは、クリープハイプの尾崎世界観さん。
7月7日(火)のゲストは、作家の高橋源一郎さん。高橋さんがNHKでパーソナリティを務めるラジオに尾崎世界観さんがゲストで出演したり、ACTIONブックフェアでは尾崎さんが高橋さんの著書『一億三千万人のための「論語」教室』を推薦していたりと、交流も深いです。今日は高橋さんと尾崎さんで表現規制のあれこれについて議論されました。
尾崎:最近は表現に対する息苦しさを感じています。でもそれはどの時代にもあるものですよね。
高橋:そうですね。果たして息苦しくなかった時代があるのかどうかですね。「果たして規制がなかったら、それは楽しいのか?」ということですよね。それは逆になにを書いていいか分からなくなると思います。今でももちろん規制はあります。法律で「書いちゃいけません」というもの、あと良識。「こういうの書いちゃって大丈夫?」みたいな。
尾崎:売れ線というやつですね。
高橋:だからそういった規制は皆ある中で、それをどうかいくぐりながら書くのかというのは昔からやってきたことなんです。逆に言うと、僕や尾崎さんもやりにくいけど、もっとやりにくい人はいっぱいいます。僕は何年か前にベトナムに行ったんですが、向こうの詩人や作家とかに会って。そこは社会主義国なので公に認められている人と個人でやっている人がいて。ベトナムは表現に厳しいので、「作品を35年発表できていないんですよ」という人がいて。
尾崎:なるほど、作品自体が出せないんですね。
高橋:そう。それで別の作家は作品を全部USBに取ってあると。なぜか聞いたら、「取られたら困るから」と。
尾崎:規制ってあるんですよね。僕も以前対談させてもらった美術家の人は、布で作品を作っていて。それは町をその布で掃除して綺麗にしながら、「掃除をしているんだ」と言いながらその布をアートにしているんです。それぐらいやらないと作品として発表できないことに衝撃を受けましたね。
高橋:そういうものに比べると僕らは楽なものですよね。逆に言うと、規制があったほうが頭を使うんです。太宰治は戦争中の作品が一番いいんです。それは、作品が反戦なのか愛国なのかがさっぱり分からないからなんです。わざとやってるんです。誰が読んでも分かりません。そこで愚直に反戦を書く人は全部書けなくなりましたが、太宰の作品を「愛国だよね」との気持ちで読むと、「これ、反戦じゃない?」となるんです。

尾崎:最近は何気ない言葉遣いも気を付けるようになりました。このラジオもそうだし、インタビューとかも結構過剰に直したりしていて。でも「それっていいことなのかな?」って。悪い印象にならないようにとか、揚げ足取られないようにとなってしまっています。
高橋:尾崎さんはエゴサーチするからね(笑)僕も気にかけないほうなんだけど、SNSは気を遣うね。このSNS時代は発言も作品並みに気を付けちゃうよね。もし伝えたいなら。
尾崎:それが作品にいい影響を及ぼしているとも思えないし。
高橋:作品だけ作ってればいいかもね(笑)
尾崎:それが一番なんですけど、どうしても宣伝とかしなくちゃいけないので…(苦笑)そうなると、発言と作品が同じになっちゃうんですよpね。
高橋:それはつまらないよね。音楽と小説とSNSがどれも同じこと言ってたら馬鹿みたいだよね(笑)
尾崎:でもそうじゃないとなにか突かれるような気もするし。

高橋:難しいのは、暴力や性的表現は規制が厳しいですよね。時代によっても違う。昔なら『チャタレイ夫人の恋人』みたいなものも一切ダメで。要はセックスを描いただけでアウトな時代があったんです。でも今はそういうのは大丈夫ですよね。だから規制がゆるくなった部分もある。一旦ゆるくなって、その反動でまた規制が強くなったりね。で、どの時代でもアウトな表現もある。マルキ・ド・サドという小説家は、「弱い人をいたぶって酷い目に合わせることが好き」という話なんです。これって今も当時も、未来も作品としてはアウトなんです。
尾崎:本当になにかをやってしまうかもしれないときに、そういうものを見ると「こういう感情はあるんだ」という確認さえできたら満足なときもあるんです。「こんなことを思っているのは自分だけかもしれない」というときに僕は高橋源一郎さんの文章に救われたので。それだけでいいんです。知らない感情って怖いから、その存在を確認して納得させてもらえるものが僕は文学だと思います。
引き続き、表現のあれこれについてお話ししました。
◆7月7日放送分より 番組名:「ACTION」
◆http://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20200707153000