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12月11日(日)放送後記

奥田瑛二さん(Part 1)

俳優、映画俳優。1950年愛知県生まれ。

役者を目指して上京し、1976年『円盤戦争バンキッド』で主演デビュー。その後TVドラマや映画などで独特の役柄を演じ、2001年以来映画監督としても活躍しています。

JK:変わらないね~。

奥田:そうですか? 自分では最近もう鏡見るのがイヤでね。もともと俳優のくせして鏡が嫌い。できる限り鏡は見たくない! メイクさんが仕事中に「はい」って見せるじゃないですか? そうすると顔をよけますからね。

JK:鏡恐怖症! 今でも?

奥田:18歳まではめちゃくちゃ好きだったんです(^^)一日中鏡見てても飽きなかったのに、なぜか東京に出てから拒否反応を示すようになって。

出水:人前に出るようになって、スクリーンにも顔が出るようになったのは大丈夫なんですか?

奥田:それはいいの。自分じゃないから。日常の自分の顔を見るのがヤなの。歯を磨いたり、顔を洗ったりするでしょ。

JK:役柄にハマっちゃえばいいのね。

私なんかからすると、奥田瑛二っていうと生の姿しか知らないからね。家族ぐるみなのよ。和津さんなんか子どもの頃から知ってるもん。

出水:じゃあジュンコさんと奥田さんはよくお会いになってるんですか?

奥田:定期的になんか集まる会があったり、三枝さんともチャリティコンサートで一緒に指揮をやったり。僕はワーグナーの「ワルキューレ」をジャンジャジャーンジャン!ってオーケストラで指揮振って、腱鞘炎になっちゃった(笑)あんなに軽いタクトなのに、どこに力入れてるんだろう?

JK:指揮ってね、私の動きで皆さんが動くわけでしょう? でも私の場合は逆なの、皆さんの動いてるのに合わせて(笑)どっちがどっちかわからなくなっちゃった。

奥田:僕なんか1か月ぐらい一人で練習しましたよ。

超楽しかった。

出水:それもある種の役作りですね(^^) ジュンコさん、俳優としての奥田さんのイメージはいかがですか?

奥田:怖っ。

JK:なんにでも化けられるし、飄々としてるし。どっちかっていうとシュールな人よね。

奥田:つかみどころがないって家族には言われます(^^;)自分でも本当の自分がどこにあるかわからないんですよ。「奥田瑛司」でずーっと生きてるから、本名呼ばれても気が付かない。

JK:本名はなんて言うの?

奥田:安藤豊明(笑)安藤和津、安藤桃子、安藤サクラでしょ? だから僕が養子に入ったと思われちゃう。それが結構居心地がいいわけ。「奥田さん養子ですか?」「ええ、そうですよ」って(笑)。

JK:なんでもいいよ(笑)でも仲がいいわよね、あの二人大丈夫かなと思ったけど、何とかなってるわね。娘たちに助けられてる(^^)

奥田:そういう意味でいうと、離婚的な危機は45~6年結婚して1回、2回、3回・・・4回ぐらいありましたかね? それは僕が一方的に悪いんですけど。

JK:そうです! 丸見えです。

奥田:僕はすぐ開き直っちゃうんだよね。ハンコ押した離婚届を和津さんに見せられると、「分かった。印鑑、印鑑・・・」「ちょっと何考えてるの! そうやってすぐ開き直る!!」「だって押せって言われたから・・・」って。僕、人生行き当たりばったりなんですよ。行き当たりばったりでここまでこれたのは、我を知れ!って振り向かせる安藤和津の力強さ。今になって思うね。

JK:対照的ね。似てるとこってないわ。でも娘たちはいい子になって! どうして?? それが不思議だわ。見習ってください!

奥田:それは反面教師(^^;) いい言葉で言えば、父親の背中を見て悪いところは全部排除して、いいところだけつかみ取っている。それは和津さんの育て方が良かった。

JK:だって、奥田瑛二に家族って感覚ないもの。

奥田:ないですね。それはずーっと言われてて。本ッ当に最近、2~3年前かな、それまでは家族ということはどこかで拒否してた。

JK:やっぱり仕事が好きでしょ? 監督が好きでしょ? 好きなことをやるには一生懸命でしょ?

奥田:もう一生懸命。周りが大変なんだけど(^^;)今となっては家族全員が映画関係だし、婿さんも俳優だし、親戚も父親も俳優だし。デミグラスソースと八丁味噌が交わったようなもんですよ(笑)

JK:結果的に大成功よ!

出水:奥田さんは今年公開された4作品を含め、これまでに86作品に俳優としてご出演されています。最初に主演したのが1976年『円盤戦争バンキッド』で、特撮ヒーローをやっていたんですね! 意外です!

奥田:バンバン♪ バンバン♪ バババ円盤♪ ババンバン♪ バババーン、バーンキーッド!ってね。幼児向けの変身ものでね、ブキミ星人という宇宙人が侵略にくるので、それと戦う青年と子ども隊員。バシーッ!(変身ポーズ)

JK:最初でしょ? いくつぐらいの時?

奥田:25歳。まあ電車に乗ってたり、撮影所に行く道すがらだと、幼稚園の子どもたちには大人気だったね。半年間やったんですけど、その後いわゆる普通のTVのオーディションに行っても、TBSもそうでしたけど、落っことされて。履歴書みたプロデューサーに「ジャリ番か」って言われて。その人をいつか見返してやるぞー!と思ったら・・・はっはっはっ。ちゃんと10年後にドラマの主役が来ましたよ!

JK:その人から?! じゃあずーっと意識してみてくれてたのね。

奥田:どうだろう? 「オーディションで『ジャリ番か』って言われたんですよ」って言ったら、「ああ、それは失礼した! ごめんなさい!」って。それから2~3本仕事させていただいから、ある意味恩人ですね。

JK:でも悔しい!っていうのはいいのよ。最初からるんるんじゃなくて、悔しさは忘れないから。

奥田:そうですね、悔しさが自分を導いてくれてるっていうのはいまだにそうかもしれない。それ以降ずーっと60ぐらいになるまで、映画関係者と飲んでるときにいつも「俺はあいつに負けた、勝った」とか言ってたわけ。「奥田、お前珍しい奴だな。ふつう役者で勝った負けた言う奴いないぞ」って言われて。でも俺、どうしても勝った、負けたって思うんだよね。

JK:ワールドカップみたいね。

奥田:サッカーの選手もそうだし、野球もそうじゃないですか。向こうは数字に残るけど、俳優は数字に残らないからね。でもなにくそ!と言って、大みそかに京都の撮影所から和津さんに「しばらく仕事辞める」って言って。結局2年、仕事しなかった。

JK:えっ、仕事しなかったの? 丸2年?! 何してたの?

奥田:何も。ずっと家で酒飲んでました(^^)

JK:でも2年は長すぎる!

奥田:それで和津さんが「お話があるんだけど」って言って通帳持ってきたの。見たら0円になってた。

出水:ひえっΣ(・□・;)

奥田:「だから何?」って言ったら「表紙を見て」って。そしたら安藤和津って書いてあって、「それ私の通帳よ。私の通帳がゼロになっちゃったの。だからお願い、仕事をしてください」って。それで子供用のピアノの上に台本が20冊ぐらい積んであったのを取って、事務所に電話して「これはいつからですか」「和津さんに渡したのが3日前です」っていうから「間に合う!!」と思って。それでPARCO劇場の『真夜中のパーティ』に出たわけですよ。それで仕事再開。その2年間は役者として自分に何が足りないのかと考えて、酒と絵ばっかり描いてたわけ。

JK:だから絵が上手なのね。

奥田:子どもも育てていたからお守もできたし。そういう意味ではその2年間、ほこらに入ってエネルギーが再生されるのを待っていた。それが0円の通帳というきっかけを待っていたというね。

JK:どん底から立ち上がって、時が来たのね。

奥田:そしたらね、撮影所で映画の撮影していたら、監督が来て「いやぁあの時は申し訳なかった、失敬」と言われて。僕はおもむろに立ち上がって「監督のおかげで僕はここまでこれました。ありがとうございます」って素直にお礼を言ったの。「お前の芝居じゃ金がとれねえ! お前の声を全部吹替にする!」って言われた監督だったのよ。僕は監督の耳元で「人殺し」ってつぶやいてね。その結果、ほこらに入っていたわけ。それも大きな転機だね。

JK:いろいろ戦ってるのね・・・でもいろんな経験をしてきて、それが自分の映画に反映してます?

奥田:めっちゃめちゃ反映してます! どれだけ2年間で、できなかった芝居ができるようになったか。舞台っていうのはいいもんで、稽古1か月舞台1か月、お金をもらいながらリハビリができるんですよ。今までやったことのない明るい繊細な青年の役だったんで、それでばあっと開花したっていうのはありますね。

出水:でも2年間ずっと見守ってこられた奥様の胆力もすばらしいものがありますね。

奥田:辞めるって言ったときも、いつまでか全然訊かなくて「わかりました」って言ってくれたんでね。それは感謝ですよね。

JK:和津さんエラい!

OA楽曲
M. Ave Maria / キャスリーン・バトル