TBSラジオ「荻上チキ・Session」月~金曜日の15時30分から放送中!
2月23日(木)放送後記
『荻上チキ・Session-22』から続く、新世代の評論家・荻上チキと南部広美がお送りする発信型ニュース番組。
「基礎から学ぶ「手話」Part2 ~「ろう」を知る」
コロナ以後の社会をリスナーのみなさんとともに考えていくシリーズ「コロナ以後、社会をどう設計していくか?」この企画は「みんなが、みんなを支える社会」を目指し、企業やNPO、行政、国際機関などとともに、国内外様々な社会課題の解決に取り組む日本財団とのコラボレーションでお送りしています。きょうの特集は「手話」です。
南部:では本日のゲストをスタジオにお迎えします。国立障害者リハビリテーションセンター学院・手話通訳学科教官の木村晴美さんです。木村さんはろう者ですので、今日は株式会社コム・プラスの中嶋直子さん、荒井美香さん、2名の手話通訳方に同時通訳をしていただきます。よろしくお願いいたします。
木村:よろしくお願いします。
南部:そして、もうおひと方、手話研究と言語発達を専門とする慶應義塾大学経済学部教授の松岡和美さんです。よろしくお願いいたします。
松岡:よろしくお願いします。
荻上:お願いします。
南部:松岡さんは著書に『わくわく!納得!手話トーク』『日本手話で学ぶ手話言語学の基礎』などがあり、「ろう者」の母語である日本手話の文法研究をされています。
萩上:木村さんは普段どういった活動をなさってるんでしょうか…
木村:はい、手話通訳の養成校が埼玉県の所沢にありまして、国立障害者リハビリテーション学院の手話通訳学科で指導を行っています。またそれ以外にも、NHKの手話ニュース845、現在木曜日を担当していますけれども、ニュースキャスターとして出演をしています。ろう通訳者と、ろう通訳者と協働する聴通訳者の養成に携わっています。
萩上:この手話通訳の養成する学科ではどんなことを教えるんですか?
木村:もう本当にさまざまなことです。まず1年生で入った時は、基本的な知識からです。ろう者というのはどういう人なのか、また手話言語学、基本的な言語学などさまざまな基本知識を学び、そして手話に関しては、まずコミュニケーションができるようになるまでが1年生です。2年生からは、それを通訳レベルまで高めていくトレーニング、読み取りや聞き取りなどのトレーニングをしています。2年間なんですけれども、本来はアメリカのような4年間の養成がしたいんですけれども、2年間と言う短い中でも通訳士の資格が取れることを目指して指導を行っています。先日1月末に今年度の手話通訳士試験の結果発表があり、現役2年生で3人が合格しました。通訳士試験全体では合格率13%程度なんですけれども、私の学院では27%程になっているので、それなりの合格率になったかなと思っています。学生たち卒業生たちが通訳士(の資格)が取れるように指導しています。
萩上:すごい高い合格率ということになっていますね。しかし手話というのも一つの独立した言語です。その言語、例えば英語とか中国語などを2年間で学ぶとなると、すごい短期集中型だなという印象があるんですが、手話もやはり難しい面があるのではないでしょうか?
木村:もちろんそうです。2年間という時間では到底足りません。ですので、2年間で基礎をきちんと習得し、卒業後、自分で力を高めていけるような、そういった指導をするというのが学院での教育かなと思っています。他の言語と同じですね。
萩上:また学生の方にも、いろんな方が来られると思うんですけど、どういった方がどんな理由で来られることが多いんでしょうか。
木村:そうですね、数年前から高卒の学生が入学できるようになりました。この前までは20歳以上ということだったんですけれども、条件が18歳以上ということになり、入学者は(下は)18歳から上は60代でしょうか。わりと幅広い年齢で入ってきます。男性が少ないんですね。女性が多くを占めています。
荻上:では、今日は木村さんに日本手話の特徴などについて、後ほど伺っていきたいと思います。そして、もうひと方のゲストは松岡さんです。松岡さんは普段どういった研究をなさっているんでしょうか。
松岡:私の専門はもともとのバックグラウンドが言語学で文法が大好きで文法の研究、そして言語発達の研究も興味があってずっとやっています。手話には過去や未来の時制がないと言われることが多いんですが、ある条件を満たすと過去完了や未来完了が確認できるようなデータが最近見つかって、それをどう分析するかを今考えています。最近よく考えるようになったのが私の元々の関心事といいますか、私はアメリカで手話研究を始めたんですが、アメリカ手話にも英語には存在しない語順があり、日本手話にももちろん日本語には見られない不思議な語順があるんですね。なぜそのようなものがあってどういう条件でそれが使われるのか、マニアックかもしれませんけれども、文法研究をやってる人間としては非常に気になるところです。
荻上:今の話にも出てきたように、日本手話っていうのは、いわゆる日本語とされるものを逐語訳していけば、それで手話になるかというと、そうではないようですね。
松岡:そうではないんですね。それが面白いところです。もちろん日本は日本語だけが使われているのではなく、よく知られるようにになったアイヌ語や琉球語のような少数言語があることは知られていますが、日本手話もその中の一つに加えることができるわけで、同じ国の中でも違う言語があり、違う文化があるということの面白さにはまっている人間の一人が自分です。
荻上:日本手話と呼ばれるものと、日本語に対応している手話、こうしたものの区別というものがまずあり、日本手話の独自性、文法、語順によって意味が変わることなど、こうした奥深さについても、惹かれながら研究されているわけですか?
松岡:はい、そうです。木村先生がお書きになった本に導かれたところもあります。日本で資料がとても少なかった中で、非常に質の良い解説、そして例文がたくさん入ってるのはやっぱり木村先生の本なんですよね。今日は番組でご一緒できて非常に嬉しく思います。
荻上:では日本手話なんですけれども、木村さんに伺っていきたいと思います。木村さん、この日本手話との出会いというのは、まずどういったものだったんでしょうか。
木村:私の両親もろう者です。ですので、私が生まれた時から家庭の中に手話がありました。
荻上:そこで話されていた、使われていたことばというのは、いわゆる日本手話ということになるわけですか?
木村:はい、そうですね。どう説明すればいいのかなと思うんですけれども、両親とも日本手話なんですけれども、私の父親は日本語はほとんど読み書きできません。戦時中の生まれで、学校で教育を受けることができず疎開をしていたということもあるので、本当に手話だけなんです。ですので、読み書きはできません。日本語の読み書きはできないんです。そうすると、小さい頃は両親のこと、父のことは、あまり頭が良くないんだなというふうに思ってしまっていたんです。外では、手話といっても日本語に合わせて口を動かしながら、手話単語を出す手話を見ていて、そちらの方が良いと思っていたんですね。ですので、両親の手話は、劣っているとか低いものとして見てしまっていたんです。
荻上:アメリカに研修に行かれた際に、どうして日本手話の魅力や深さというものに気付けたんですか?
木村:アメリカであったり、ヨーロッパですね。ろう者のためのワークショップがまずヨーロッパであって、ろう者の言語学の専門家からいろいろ指導を受ける機会があったんです。そこで、手話というのは、例えば「一致動詞」というものがあるのですが、最初に聞いた時はそれが何だか分からなかったんです。/言う/という手話表現を表すと/私が言う/、/相手が言う/、または/第三者が言う/(握った手をパーの形に開きながら動かす方向が3つそれぞれで違っている)。または、/私があげる/、/相手から私がもらう/、/もらう/というようにいま手話を出していますが、「誰から誰に」という(手を動かす)方向が「手話の軌道」ということなんです。これが一致動詞だと初めて(説明を)聞きました。例えば/助ける/と表す時/私が助ける時と、自分が助けてもらう時、そして第三者が第三者を助ける時で、手話の軌道・向きが違ってきますね。
萩上:動画で見ている方はお分かりだと思いますけど、方向性、同じような手話なんだけども、方向を変えることによって、誰から助けられるのかっていうものが変わってる様子を伝えてくださってますね。
木村:はい、そうなんです。ありがとうございます。そうですね、手話で/言う/(握った手をパーの形に広げながら動かす表現)以外にも、実はこれも/言う/(人さし指を立てて口元から前に動かす)という意味で、今、違う手話を出しているんですけれども、この人差し指だけで表す『言う』は一致動詞ではないんです。つまり、誰が言ったかによってその軌道は変わらないんですね。ですので同じ動詞であっても、一致動詞とそうではない動詞というのが、きちんとルールとしてあるということを、初めてそのワークショップで知ったんです。日本にいては知らなかったことなんですけれども、そういった海外での経験からきちんとしたルールがあるということを知って、またさまざまな先駆者達との出会いの中で(も)知っていきました。
荻上:それまでの生活の中で、自然と使っていたものにこんな規則性があったということに説明が与えられたという経験になるんですか?
木村:そうです、まさにそうですね。そこで改めて知ったわけです。それまでは手話というのはでたらめじゃないかと思っていたんです。例えば「て・に・を・は」にあたる助詞を表すものがない。なので、でたらめだっていうふうにまわりからも言われていましたし、そう思い込んでいたんですけれども、やはり説明をされたことで、私の言語である日本手話にはこういったルールがある、文法がある、ということが分かって、それまで両親の手話を低いものと見ていたことも反省しました。
荻上:以前手話の特集をした際に、手話はハンドサイン:手の動きだけではなく、相当体を立体的に使ったり、顔の表情とか角度とか位置とか、いろんなものが総合的に手話になっているということを伺いました。今の手話のやり取り、皆さんのやり取りを見ていても、そうしたものがうかがい知れますが、改めて日本手話の特徴などはいかがですか?
木村:特徴ですね。ラジオで聴いてる方に説明するのがまた難しいんですけれども…
荻上:私達頑張ります!南部さんと荻上、頑張ります!
手話クイズ
木村:ありがとうございます。例えば、じゃあお二人にこの違いが分かるか見て頂きたいと思うんですね。使う単語は、/私/という手話と、/母/という手話と/妹/という手話、この三つの単語を順番通りに並べていきます。今表している文が何人のことを言っているのかを当ててください。一つ目をやります(手話を表す)。二つ目をやります(手話を表す)。三つ目をやります(手話を表す)。違いがわかりましたか?
荻上: 私が見た違いですと/妹/、小指を立てるサインが一回真正面に出される時と、二段階に分けて出される時で、もしかしたら妹の数が違ってるのかなと感じたんですが。
木村:もう一度やりますね。/私//母//妹/それぞれの単語の後に頷きが入るので「私と母と妹」3人を表してます。次に表したのは、実は2人のことを言ってるんです。/私の母/と/妹/、つまり2人のことを言ってるんです。
萩上:指先の動きにばかり注目してましたけれども、実際に頷きなどに表現が出るんですね。それで、意味が変わるんですね。
木村:3つ目の表現は1人を示しています。見てくださいね、/私//母//妹/と表した時に、これは日本語で言えば「私の母の妹」つまりその妹(叔母)一人のことを言っています。
荻上:どこに『の』があったんだろう…
木村:この『の』というのは、今表現しましたけれども、(日本語の「の」にあたる表現が日本手話にあるわけではなく)日本語で言えば「私の母の妹」という意味(翻訳)になるということなんですね。/私//母//妹/という三つの単語が連続して出されていて、その間に頷きがありません。ですので、それが全部繋がった一語であるという意味で、/私の母の妹/という一人のことを表します。聴者の学習者は、手ばかり見てしまいますよね。重要なのは手ではなく、顔の動きなんですね。まゆの上げ下げ、目の見開き、頷き、それで文の意味が全く変わってしまうので、そこを捉えなければいけないんです。
荻上:なるほど。よく昔、手話の勉強をしましょうといった時に、プリントなどを渡されて、そこには日本語対応の『あいうえお』の手話(指文字)だけが書かれているものが載っていて、それを暗記すれば、言葉が話せるのかなと誤解しがちなんですが、実際には、日本手話は今あった表情などによって文法とか、言葉の意味とか、そうしたものが変化するということになるんですね。
木村:はい、そうですね。分かっていただけましたね。
荻上:手話の奥深さ、その一部だけ、今伝わったような気がします。松岡さん、日本手話の特徴について文法的に具体的に説明していただきましたけれども、改めて日本手話の特徴、そして日本語対応手話との違いについてはいかがでしょうか?
松岡:いまちょっと補足しようかなと思ったんですけれども、手話っていうのは手だけではなくて、荻上さんがおっしゃったように「表情」という言われ方をよくするんですが、それは「表情」ではないんですね。感情表現、つまり嬉しい表情・悲しい表情、それは人間であれば聴者だろうとろう者だろうと、みんな顔の「表情」に出るわけですが、木村さんのおっしゃる顔の使い方は「ルール」に近いですね。私は「顔の動きのルール」または「文法的な顔の動き」って言い方をします。なぜかと言うと、その顔の動き方の文法と感情表現の表情が重なって出ることが普通なので、「表情」と言ってしまうと、あたかも文法ではなくて気持ちが、ハートが通じればなんでも通じるという誤解につながりがちなので。
荻上:フェイスサインと言うか、顔とか頭を使ったサインとか・・・
松岡:そこにも文法が入っているって言う形をよくします。ろう者の方も、自分はあまり顔に気持ち(感情)が出ないけど、文法の顔の動きは必ず入ると説明をされる方も多いので、やっぱり『顔が動いてる=表情』とは限らないということです。私たちが手話を学習する際には、木村さんがおっしゃったような文法上の顔の動きっていうものを意識して学習しないとルールがわからない。(それに対して)「表情」ってもっと自由なものだと思うんですよ。自分の気持ちを表情で表す時には(その人の)個性もあるし(表情が)顔に出る人・出ない人もいますし、もっとクリエイティブなもので、それと文法の顔の動きはまた別の話という点が重要だと思います。それになるほどって思えたら、手話の文法に大きく近づいたことになると思います。
荻上:例えば、音声言語でも『あなたのことが嫌いです』って言っている時に、涙を流しながら嘘をついているような表情を浮かべながら言う時と、怒ってる時とで意味が変わることが起こり得るわけですが、手話においてもあたかも、顔で表現として文法として行なっていることと、表情が当然違うことはあり得るわけですよね?
松岡:あり得るというか、常にそうです。木村さんにそのあたりコメントをいただけるといいかなと思うんですけれども、顔の表情と文法の顔の動きの違いってどうでしょうね?ネイティブの方はあまり意識されてないでしょうか。
荻上:今、木村さんがちょっと頭を抱えるポーズをされました。
木村:そうですね…聴者の皆さんに誤解をされるのは、よく怒ってるって思われるんですね。全然怒っていない時に、怒ってるのかなって思われるんです。例えばいま口をすぼめた顔をしていますけれども、聴者の場合は不満を表す時にこういった口の形、顔の表情になると思います。この口の形は、ろう者の場合これは「問題ない」「全く問題ないよ」っていう時に使うんですね。問題ないですよってこちらは伝えたつもりなのに、聴者にはすみませんと平謝りされてしまったりするんです。つまり怒って言っているんだと誤解されてしまうんですね。問題ないですよって言っても、すみませんすぐ直しますからというふうに言われて、何でそんな反応になるんだろうっていうと、聴者としては表情・感情としてその口の形を捉えてしまっている。もし手話で怒った場合、怒っていたら別の(手話)表現になるんですね。ですので、ろう者の場合は、ろう者の手話の文法として顔が出ているのか、怒ってる感情として出ているのか、当然わかるんですけれども、聴者は全て感情の表情として見てしまうので、そこで誤解が生じることもあります。
萩上:「表情」と表現するといろいろな誤解が生じるというところまで整理されました。松岡さんに先ほど、途中までお話を伺いましたけれども、この日本手話と日本語対応手話の違い、以前出て頂いた際にも少し説明いただきましたが、改めてどういった違いがあるんでしょうか?
松岡:ラジオで説明するのはなかなか難しいものがあるのですが、私と木村先生で作った動画がyoutubeで公開されていまして「国立障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科」という木村先生の職場のyoutubeチャンネルっていうのがありまして、そこに短い例文で『あなたのようになりたいです』という手話例文で、日本語対応手話と日本手話その①、日本手話その②、日本手話その③っていうので、続けて表して頂いた、言語学者にとってお宝のような動画があるんですが、それに加えて私の方でスロー動画を作って解説を書いて、日本語対応手話と日本手話を並べて、長さを比べる解説動画を去年作りました。『手話通訳(学科)あなたのようになりたいです解説』で検索するとすぐYoutubeで出てきます。モデルは全部木村先生です。
日本語対応手話の部分に「手指(しゅし)日本語」という書き方をしてるんですが、その(呼び方の)ポイントは、日本語の通りに喋りながら手話単語があれば付けられるところには付けていくということです。昨日思いついたんですけど、イメージは「手話アシスト日本語」。「電動アシスト自転車」は電動アシストがあっても自転車であることは変わらないじゃないですか。同じように手話単語でアシストをつけると、ちょっと分かりやすくなりますが日本語であることは変わらない。電動アシストを自転車につけても電動バイクになるわけではなく、自転車と電動バイクには違う法律があります。どっちが良い悪いの問題ではなく、本質的に違う。日本語対応手話は『手話アシスト日本語』でいいんじゃないかなと思った次第です。
基本的には、今言った通り日本語を喋りながら、つけられるところに手話をつければ良いので、日本語が分かる方には非常に使いやすいです。さっき荻上さんがおっしゃってたように、単語を覚えれば、日本語が使える方・日本語主体の方であればどなたでもお使いいただける、非常に使い勝手の良いものです。音声を乗せやすいというところがあって、喋りながら手話をするのであれば、この形式になるわけですね。もちろん電動アシスト付き自転車は非常に便利なものですので、それは良い。
だけどこれが電動バイクと同じと言ってしまうと問題が生じるように、「手話アシスト日本語」を日本手話と同じだって言ってしまうのは正しくないということになります。というのは、その声の乗せやすさが全然違う訳で、手話アシスト日本語は日本語ですから、簡単に声をつけることはできますが、日本手話はそういう仕組みになっていなくて、声を使うことは全く想定されてないデザインになっています。口の使い方も、文法の口の使い方がありますし、さっき話したように(日本手話と日本語は)語順からして違うので、そもそも音声をつけることが全くそぐわない、そういう特性の言語です。
ですので私たちのような聴者が日本手話を勉強する時には、そのことをまず踏まえて勉強していって、その2つを相手に合わせて使い分けるということが一番いいんじゃないかなということを著書の『わくわく!納得!手話トーク』でも説明しています。よくある誤解は、どちらかが正しくてどちらかが誤っているというようなものですが、これはおかしいと思います。いろんな言語がある中でAという言語が正しくてBという言語が間違っているなんてことは絶対にない訳で、それぞれの文化、使用者がいらっしゃるわけですから、みんな違ってみんないいわけですよね。そういう風に見ていくことで、弾かれる人が無くなる、そういう考え方が一番いいんじゃないかなと思っています。
続けて日本手話の特徴ですが、手だけではない、一言ではそういうことになります。今ご紹介した動画の解説にも入れたんですけれども、まず英語みたいにはっきり主語が日本手話にははっきり出るんですが、『私はあなたのようになりたいです』って『私』が出てきて、そこに頷きがつくんです。その頷きで『私は』、日本語でいうところの『は』っていう、話題の切れ目が生じます。また、手を動かして文を表しながら目が細まっている、そして体がちょっと小さくなっている、これは何を示してるかというと、話している相手への尊敬の念、自分が小さくなることで「謙虚さ」を示していて、手話がゆっくりになるとも言われるんですが、そういうことも「込み」で見なければ本当のメッセージは伝わらないです。そして「あなたのようになりたいです」という時に、「あなた」つまり相手の位置を指す場所に手が置かれるんですね。その手を自分に寄せていくことで、空間を使って相手のイメージを自分の中に取り込むということを私はやりたい、その『たい』という気持ちの強さが(例文2と3での)口の強い閉じで表されている。そこを全然見ていないと、本当に手の動きで分かる情報しか分からず、それは全体のメッセージの半分以下になってしまうようなことがよくあります。
萩上:「あなたのようになりたいです」手話アシスト付き日本語、日本語対応手話だと「あなたの」「ように」『なる』『したい』みたいな、区切っていくようになるわけですね。
松岡:今日プリントを作ってきたんですけど、(日本語対応手話では)/あなた//みたい//なる//欲しい//ある/という直訳になるんですが、最後に手は/ある/と出ているんだけれども、口は「デス」って動いてるんですよね。これは日本語に合わせて人工的に作られたルールです。日本手話には(日本語の)「です」に対応する表現がないので、便宜上、誰が決めたのかよく分かりませんが、なんか手話単語を引っ張ってきてい、でもそれはろう者から見ると、/存在する/っていう手話単語なんですがなぜかこれが「です」ということになって、(日本語対応手話では)そういう約束事になっているという特徴があります。その課題は、日本手話を母語とされる方にはちょっと意味がわからない。要するに「あなたのようになりたい」という文なのに、何この最後の「存在」は?みたいな。口の形を見ないと、これは「です」という約束事なんだなっていうのがわからないと理解できない訳です。

荻上:手話を使ってるけれども、結局日本語という日本手話とは別の言語の特徴みたいなものを学ばないと、日本語対応手話で何を言ってるか把握が難しくなるわけですか?
松岡:手話アシスト日本語をするために(手話表現を)ちょっといじっているわけですね。オリジナルの手話単語の意味を変えたり、どれを当てていいのか分からない時には人工的に表現が作られるというのも、日本語対応手話に広く見られる特徴です。言い方には気をつけないといけないんですけども、悪いことをしているんじゃなくて便宜上そういう手段をとっているだけです。だから日本手話とは違うのだということをはっきり確認していれば、そういうやり方があるって言うのは受け入れられても、私個人としてはいいんじゃないかなと思うんですね。よろしくないのは、全然違うものにも関わらず、これは日本手話と同じだって言ってしまうことですね。
萩上:また、私たち聴者が手話について触れる時には、例えばテレビドラマであったり、あるいは歌手の方がパフォーマンスの中で手話を取り入れて、その歌詞の順番に手話をしていくっていう事をやったり、国会議員の方とかいろんな方が、手話も使って日本語で話している様子を伝えるって言うことが行われるわけですね。木村さん、こういった手話付きの日本語、日本語対応手話は、日本手話の使い手にとっては、ちょっとギクシャクしたカタコトのように聞こえるのか、それでもなんとなく分かるものなのか、どうなんでしょうか?
木村:そうですね、いろいろな難しい問題がそこにあると思います。よくテレビなどでも、声を出しながら、歌を歌いながら手話をつける様子を見かけます。当然、日本語として見る時に、その日本語を理解する助けにはなりますが、やはり大変疲れます。まず日本語というのは、ろう者にとって第二言語です。文字であればはっきりと見えているのでまだいいんですけれども、日本語対応手話であると、やはりそこから日本語を推測していくというのは大変難しいです。大変苦しく感じます。ですので、日本語対応手話がもし出るのであれば、字幕を選びます。字幕の方が明らかに日本語としてきちんと出てきます。日本語対応手話は、日本語を表そうと手話単語を使いますが、やはり十分に日本語を表しきれていないんですね。
ろう者のほとんどは、恐らく日本語対応手話をされた時に、自分たちのためにやってくれているんだからという感謝の気持ちでもって、間違っていても、わからなくても、それを言葉にはできないと思います。私や私の周りのろう者はそうではない、もっときちんと声をあげていかなければいけないと思うんですけれども、やはり多くのろう者は聴者がやってくれている、自分たちのためを思ってやってくれているということで声をあげられないんですね。また、ドラマであったりとか、有名人が手話をしていると、聴者がそれに憧れて手話を勉強し始める。おそらく今そういうことが多いんじゃないでしょうか。テレビなどでの影響で手話に憧れて勉強し始めるんですね。私としては当然、日本手話を覚えてほしい。ということは言語として覚えてほしいわけです。例えば英語やさまざまな外国語を学ぶ時に、当然ネイティブの言語を身につけたいと思いますよね。でも手話に関しては、ネイティブではない人が言語モデルになっている、憧れの対象になっているということが、問題の一つかなと思っていて、この状況を変えたいな、それにはどうしたらいいかなというふうに考えています。
萩上:松岡さん、実際テレビなどで使われるその手話も日本手話ではなくて、日本語対応手話である場面というのも、多々あるんですか?
松岡:多々ありますね。木村先生のおっしゃる通りですけれども、一つ補足したいところは、こういう話をしていると、どっちを私は勉強したらいいんですかとか、もう日本語対応手話をずっと勉強してるから、今更日本手話なんて無理ですとか、2つは無理とか言われたりするんですが、強調したいことは、日本手話をまず覚えていけば、日本語対応手話は自分のしゃべる日本語に、その知ってる単語を足していくだけなので簡単ですよ、結構。日本語対応手話を学んでから日本手話に切り替えるっていうのは、体験なさった方から非常に難しいとよく聞くんですが、逆は(日本手話を先に学習する場合)非常にスムーズであると聞きました。難聴者の方で日本語対応手話(手話アシスト日本語)を使われる方にお会いした時に、日本手話が今一つ通じなかったので(日本語対応手話に)切り替えたことがあって、やっぱりみんなが言ってる通り結構簡単だなって思いました。頭の中は日本語でいいんですから。なんなら声もつけちゃってもいいし、そこに知ってる手話単語を付けていくので、日本手話と日本語対応手話を両方やるってのは、そんなに難しいことではないです。自分の本にも書いている、おすすめの方法です。相手に合わせてというのが、一番マジョリティ側が心がけるべきことですよね。相手に合わせてみんなハッピーでいいんじゃないでしょうか。
荻上:となった時に、木村さんが今お話してくださったように、役者の方とかミュージシャンの方が手話を取り入れて、それでコミュニケーションを図ろうとする努力はすごく重要ではあるけれども、それがモデルになると日本語対応手話の方に憧れが広がっていったり、当事者たちが使ってる日本手話の存在がなかなか見えづらくなってしまうという状況が生まれたりします。その点についてはどういったお考えをいま持っていますか?
木村:そうですね、そこは大きな問題だと思っています。例えばYouTubeで手話という単語で検索すると大変多くの動画が出てきます。そういった動画を見ると、どうしてもやはりろう者を見ていない、ろう者の手話ではないというのが多いんですね。つまり、その手話は誰に向けてやっているんだろうと思うんです。手話歌を取り入れて、おそらくやってる人はろう者のためにというふうに思っているかもしれませんけれども、実際はそうではないんですね。これは本当に長年私も思っている課題であって、なかなか変わらない状況なんですね。今日のような機会を頂いて、できるだけいろいろと情報を広めていって少しずつ変わっていければなと思っています。
萩上:まずは「あっ違うんだ」っていう気づきを対話の機会で得る。それがまず一歩目としてとても重要なのかもしれません。さらに言うならば、そうしたドラマとかいろんな制作の現場に、当事者が出演する、あるいは当事者が監修をする、しっかりとした研究者と対話をする、こういった役割はますます重要なように思いますが、その点どうでしょうか?
木村:はい、そうですね。アメリカのアカデミー賞では、映画『コーダあいのうた』でろう者の俳優が賞をとっていましたね。日本でも手話を扱ったドラマが増えていますけれども、ろう者がろう者役をするというのではなく、聴者がろう者の役をするということが多いんですね。その努力は買いますけれども、やっぱりろう者ではないというのが分かってしまうんです。ハリウッド映画等で、日本人の役を日本人ではないアジアの役者が、顔の見た目だけで選んで日本人として出てきたら、おそらく日本の聴者の方たちは違和感を抱くのではないでしょうか。それは細かな行動の違いや、発音や日本語の言葉の使い方が違うから日本人に思えないんですよね。それと同じことがろう者にもあるわけです。もしろうの役をろう者がすれば、そのドラマにもろう者としてはすごく共感してみることができるんですけれども、聴者がやることでそうではなくなってしまう。ということで、やはりろう者の役はろう者がやるというふうに制作をしてもらえればなと思います。
萩上:あえて厳しい言い方などをすると、聴者の感動のためにろう者たちのカルチャーにリスペクトが欠けるような制作の仕方が行われてはいないか、そんなことを考えて欲しいということになるわけですか。
木村:はい、そうですね。例えば、ろう者は可哀想であるとか、助けてあげるべき存在だというふうに見て作られているというところも問題だと思います。私たちろう者というのは、ろう者であることを何か問題に感じているわけではないんです。実は「デフゲイン(deaf gain)」という言葉、ろう者であるということをプラスに捉えて、ろう者であることを得た、獲得したという考え方があるんですね。ろうという状態を得る、いいものとして獲得することですね。例えば私、あるところで宗教の勧誘を受けたんですね。「この宗教を信じると聴者になれますよ」というような言い方が出てくるわけです。つまり聞こえないということは「かわいそうですね」「この宗教に入れば聞こえるようになりますよ」と勧誘で言われるわけですけれども、私は聴者になるのは怖いです。「ろう者という状態がとても良いんです」というふうに答えると、相手は戸惑います。おそらくそんな答えが返ってくると思っていないからです。まさか聞こえるようになりたくないとは、思ってないと思うわけですよね。そういう(私のように)ろうの状態を良いものとして捉えるというのがデフゲイン(の考え方)ですね。
荻上:デフゲインという考え方、松岡さんも先日少しだけ紹介していただきましたが、こうした考え方を持つことによる意味とか、そうした考え方を知ることによる意義というのは、どう感じられますか?
松岡:その意義は、ろう当事者だけではなく我々聴者にも大きな変化をもたらす、とてもダイナミックかつポジティブなものの見方だと思います。前回お話をしてからまたちょっと調べたんですけれども、この言葉(デフゲイン)を初めて使ったのがイギリスのウィリアムソンというパフォーマンスアーティストで、大人になってから失聴した方です。日本語で「失聴」って聴力を失うと書きますが、イギリスの医師は『聴力がなくなりますよ』っていう言い方を全員するんだけど、ウィリアムソンはとてもユニークな人で、どうして逆を言わないんだろうと思ったらしいんです。『あなたはろうであることを獲得しつつあります』って言ってくれたお医者さんが一人もいないのは不思議だよねっていうことを、学校の卒業式の来賓としてお話しになったそうです。それを聞いたバウマンという学者がですね、ろう者のマレーという別の研究者と2人で、この考え方を進めてみるのはどうかという試みをやっておられて、2014年の『Deaf Gain(デフゲイン)』という論文集に(情報が)まとまっています。
「ろうであること」というのは、人間の生物的な多様性の一環であって、人類の進化の中で常にろう者はいたはずで、(それが一度も)滅びていない。民族として確立している言語と文化があり、その多様性からそちらの外の世界にいる人も学ぶことができます。何を学べるかって言うと、言語は音声を使うものだけではない、文字使用の有無は別に言語としての性質に直接関係ないとか、そのようなことは手話を見てもわかることですね。世界観が大きく変わる。多様性というものは一般的にとても良いものと考えられています。いろんな種類があった方がいい、皆が同じようなタイプの人間だったら滅びる時も一斉に滅びてしまうので、多様性っていうのは大事だと以前から考えられています。文化的な多様性っていうのは文化の相対化ですよね。自分たちと違う文化を知ることで、自分の文化はこうだったのかと気が付く、ありがちですけども海外に行って初めて日本文化にこういう特徴があるのかって知るような、だから全員の視野が広がる。私もおもしろがってそれに入っていったわけですが、(手話について知ることで)音声言語のイメージが変わっていくところが、大きな意義だと思います。
萩上:なるほど、音声中心主義とか聴者中心主義の社会に気づかされる、木村さんのように日本手話が実は、複雑で多様な言語だということに気づく、今日の放送がその気づきの一つになると嬉しいなと思います。