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9月22日(金)放送後記

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』のコーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞して生放送で評論します。

今週評論した映画は、『ほつれる』(2023年9月1日公開)です。

宇多丸:さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。金曜日、余すところあと2回となります……これからは木曜日にお引越しします、10月からはね。今夜扱うのは、9月1日から劇場公開されているこの作品、『ほつれる』。

昨年、公開された『わたし達はおとな』で長編映画監督デビューした、劇作家・加藤拓也監督の長編映画第2作。夫との関係がすっかり冷え切っていた綿子は、友人の紹介で知り合った男性・木村と頻繁に会うようになっている。しかしある日、二人の関係を揺るがす出来事が起こる。主演は『あのこは貴族』などの門脇麦さん。共演は田村健太郎さん、染谷将太さん、黒木華さんなどなど、でございます。

ということで、この『ほつれる』をもう観たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「少なめ」。

まあ、劇場公開規模がそんなに大きくないっていうかね、ミニマルな……作品自体も非常に小さな作品ではあるんで。ということなんですかね。ただ、賛否の比率は、褒める意見がおよそ9割。かなり大絶賛でございます。

主な褒める意見は、「共感できない登場人物たちばかりだが、芝居のうまさで最後まで引き込まれた」「主人公・綿子の夫を演じた田村健太郎がすごい」。やっぱり皆さん、おっしゃいますね。「編集のテンポや撮影が良かった」などがございました。一方、否定的な意見は、「主人公の行動は脇が甘すぎる」。まあ、それは確かかもしれません。「ストーリーに驚きがなく、感動もしなかった」などもございました。

「演技・演出・ダイアログが三位一体でスパークする、圧巻の芝居場!」(リスナーメール)

それでは代表的な感想を要約しつつ、紹介させていただきます。久々に読ませていただきましょう。ラジオネーム「ロヂャー」さんです。

「冒頭一発のショッキングな展開から先は、割とミニマムな話が続くのですが、舞台演出家らしいコクのある芝居場(しばいば)の集積で、ヒリヒリ来る緊張感をもって最後まで面白く観れました。

なかなか共感しづらいヒロインに、決して目を離せない吸引力をもたらした門脇麦さんを筆頭に、役者陣は隅々まで好演ですが、わけても麦さんとの関係が煮詰まった夫を演じる田村健太郎さんが出色でしたね。決して悪い人ではなさそうなのですが、絶妙にカンに触る、何なら軽いサイコ味の薫る挙動の数々がタマりません。口論になると、いちいち自分の正当性を確保してから、とことん理詰めで執拗に相手の逃げ道を塞いでくる感じ。

そんな夫のイヤミな正論と、妻の苦し紛れな論点ズラしの逆ギレが火花を散らす終幕は、この夫婦がずっと表面だけ取り繕って先送りにしてきた問題が一気に噴出する、目も当てられぬ泥試合なのですが……」。本当だよね(笑)。

「演技・演出・ダイアログが三位一体でスパークしており、圧巻の芝居場でありました」。全くこれは同意でございます。「そんな“ほつれ”まくった話に潤いをもたらしているのは……」。これ、ロヂャーさんの視点が面白くて。「それは“小旅行映画”としての側面かと思われます。夫婦や愛人同士で、ただ飛行機の発着を眺めに訪れる空港。

W不倫カップルの逢瀬の場となる、妙にラグジュアリー感の強いキャンプ場」。グランピングっていうんですかね? あんな楽なんだったら俺も行ってみようかなと思いましたけどね。

「門脇麦と友人の黒木華が赴く山梨の道の駅など、長くて一泊、基本は日帰りの、ちょっとした近場旅行ならではのプチ旅情が良い感じでした」。確かに確かに。「しかし深田晃司監督の諸作や『ケイコ、目を澄ませて』『そばかす』など、メ~テレシネマ製作の作品群は総じてアベレージが高いですね」。全くですね。「今後もレーベル推しして行きたい、安定のブランドであります」。本当だね! もう日本のA24かっていうぐらいの……それは言い過ぎかな?(笑) でもメ~テレ、いいと思います。本当にね。

一方、ちょっとダメだったという方もご紹介しましょう。ラジオネーム「前世は抱きマクラ」さんです。「宇多丸さん、こんばんは」。

どうも、こんばんは。「『『ほつれる』、鑑賞してきました。私の意見としては、否でした。個人的な感想ですが、不倫に対しては否定も肯定も無く、それぞれの事情や気持ちでお互いにどうしようもない気持ちで関係に至ってしまう場面もあるかも知れませんが、相手に気付かれない様、細心の注意を払って行動するのが最低限のルールと考えています。その点から、不倫相手とのペアリングの写真撮影、夫との約束を忘れて衝動での遠出かつ不倫相手への墓参り、ペアリングの紛失などは脇が甘すぎて、むしろ気づいて欲しいアピールでは?と疑ってしまう程でした」。でも、ひょっとしたら無意識のそれ、みたいな読みもできちゃうかもしれないですけどね。

「又、主人公の閉塞感や夫への諦念した演技は良かったのですが、子育てや仕事に縛られずに不倫相手とグランピングやランチ、友人とのドライブ等、中々に充足した暮らしに見えました。周りを見ればきりがありませんが、仕事や子育てでがんじがらめな人、義両親の相手でお手伝いの様な役割を強いられている人など、自分の人生を生きられない人を思うと、主人公の脇の甘さや日々生きてく事への生活力が感じられず、ラストの後の主人公の人生に不安を感じます」。まあ、たしかにね。「お前、どうするんだ?」っていう感じ、あるかもしれない。

「エンドロールのBGMが無い点についても個人的には締りが悪く、寂しい印象でした。夫の気が使えてる様で使えていない、理詰めの様で詰められていないネチネチした演技は最高で……」。

ああ、やっぱり田村健太郎さん、ここでもね。「同性から見てもあれはムカつきます」というご意見です。皆さん、ありがとうございました。だから皆さんね、なんか褒めてたり、グッと来たポイントっていうのは、ちょっと共通していたりするのかもしれませんけどね。

ということで、ありがとうございます。『ほつれる』、私も久々にシネスイッチ銀座で2回、観てまいりました。

劇作家・加藤拓也の凄み

平日昼回にしてはまあまあ、人がいた感じしましたけどね。ということで、脚本・監督、加藤拓也さんです。29歳、非常にまだまだお若いんですね。演劇界で、若くして既に、たとえば岸田國士戯曲賞受賞など、高い評価を得られている方で。長編映画は、昨年の『わたし達はおとな』に続いてこれが2作目。

『わたし達はおとな』は、前RHYMESTERマネージャー小山内さんもですね、たしか加藤さんの舞台の方も何個か見に行っていたりとかして。「この人が映画を撮って、これが面白いんですよ!」って公開当時、絶賛されていて。

リスナーメールも来たかな? みたいな感じだと思うんですけど。まあ、例によって私の大好きな「胸糞倦怠カップル物」と言いましょうか(笑)。ちょっと『ブルーバレンタイン』っぽい構成の作品でもあるんですけども。先週の『福田村事件』でですね、善意の記者を演じられていた木竜麻生さんという方。こちらの主演がまず、本当に素晴らしかったですし。対する藤原季節さん……これ、褒め言葉なんですけど、本当に藤原季節さんが嫌いになりそうなぐらいですね(笑)、まあ最低っぷりというか、身勝手っぷりというか、「男やーね」っぷりというか、発揮していらっしゃいました。すごく面白かったですね。

とにかく加藤拓也さん、僕自身は例によってですね、大変不勉強で申し訳ありません、舞台作品の方は、直接はまだ全然ちょっと見ることができていないんですが。市川森一脚本賞を獲られた、2021年、NHKのテレビドラマシリーズ……テレビドラマの制作なんかも結構やられてる方なんで。テレビドラマシリーズの『きれいのくに』というのがあって、これをこのタイミングで遅まきながら拝見しまして。特に『きれいのくに』のシリーズ前半は……後半はまた、話が全然とんでもない方向に向かっていく、一種のSFドラマなんですけど。少なくとも前半部は、それこそ『わたし達はおとな』と今回の『ほつれる』の要素が、本当に二つ組み合わさったような、ピリッとしたパートナー同士の関係性っていうのが、やはり描かれていて。

僕なりにざっくり、僕が見た範囲での、加藤拓也さんの得意技というかな? そのあたりを表現するならば……たとえば、日々のちょっとしたやり取りひとつひとつの中に潜んでいる、言った側は悪いとは思っていない、何とも思っていないけど、言われた側は内心「えっ、何それ?」とか「またか……」みたいな違和感であるとか不快感というのを、密かに溜め込んでいて、みたいな。そんな歪みの蓄積。あるいは、劇中直接描かれているよりもずっと前の段階で生じていたっぽい、やはりパートナー関係の、元々あった歪みや不均衡、などなどがですね、しかし表面上は平穏な関係性を、取り取り繕おうとするわけですね。やっぱりね。

「いやいや、あ、まあ、そうか」って一旦……たとえば、ここで大喧嘩でもしておけばいいかもしれないことを、「うん、まあ……わかった。そ、そうだよね。そういうこともあるよね。うん。わかった、わかった」みたいな感じで飲み込んでしまうほどに……お互い、気遣ってないわけじゃないんだけど。その、中途半端な譲歩というか。自分の中の理屈は一切開示というか、譲っていないまま、一見、表面上譲歩した風なものを重ねていくことで、結局……つまり、本質からの逃避っていうのを重ねることで、結局、そのズレの深刻度を増していく、みたいな。

で、それがあるところで臨界点に達して、主人公たちは、ずっと目を背けてきた歪みの本質に向き合うことになる、というような。少なくとも現状の長編映画2本に関しては、そうしたその日々のちょっとしたやり取りひとつひとつに潜んでる歪みの蓄積、これがですね、非常に念入りに繰り返されるという事前のリハーサル……これ、『POPEYE』の門脇麦さんのインタビューによれば、各シーン100回はやってる、ちょっともうよくわかんなくなるってぐらいまで繰り返している、というそのリハーサルなどによって、要は完全に無意識の振る舞いのように見えるまでになった、「演技の意図」が見えないところまで、もう無意識にやってることみたいに見えるまでになった「自然な」会話の中に、さりげなく、しかし鮮烈に、その歪みの蓄積っていうのが浮かび上がってくる、っていうね。そこがこの加藤拓也さんという方の、少なくとも私が見た範囲の中の、まずは圧倒的な凄みがある部分かな、と言えると思います。

一卵性双生児的な戯曲『綿子はもつれる』、その衝撃のラスト!

しかもですね、しつこいようですが僕は舞台作品をまだ直接は拝見できていない、不勉強な状態ではあるんですが、今年の5月にですね、安達祐実さん主演で上演された、これは加藤さんがやられている「劇団た組」の『綿子はもつれる』っていう。こちら、『ほつれる』じゃなくて『もつれる』。『綿子はもつれる』っていう、これが戯曲集という形で、本になってるんですね。で、本になったその台本の方を、このタイミングで読ませていただきまして。これが今回の映画の『ほつれる』とはほとんど裏表関係というか、言ってみればほぼ同じセッティング……不倫とか事故とか、前の結婚の時の家族とか、みたいな。セッティングは似ている、近い話なんです。しかし、特に着地が、めちゃくちゃ対照的!という。同じなんですよ、もう結構な部分。同じセッティングで、同じ展開も結構あるんですけど、着地がめちゃくちゃ対照的なんです、この『綿子はもつれる』の方は。興味ある方はぜひ、こちらは白水社から戯曲集が出てますんで。『ドードーが落下する/綿子はもつれる』っていうので。『ドードーが落下する』はこれ、岸田國士戯曲賞を取ったやつですね。

で、この『綿子はもつれる』のラストはとにかくですね、もっと全然、とにかく最初から出口なんかなかった感というか、最初から詰んでいた感というか、ものすごいダークで皮肉な……でも、これはこれでもう強烈極まりないラスト。さっき構成作家の古川耕さんは「この世界線は知りたくなかった」って言ってましたけど(笑)。強烈なラストなんですけど。

演劇出身だからこそ意識的に研ぎ澄まされる「映画ならでは」の語り口

まあ、とにかくその、一卵性双生児的な戯曲『綿子はもつれる』と今回の映画『ほつれる』という、これを比較すると……あるいは、さっき言ったように長編映画としてはデビューとなった前作『わたし達はおとな』と比較してもいいんですけど、加藤拓也さん、「映画ならでは」の語り口というものを、かなり意識的に研ぎ澄ませていっている、という感じがします。

これはですね、このあたり、今回の映画にもですね、「協力」という形でクレジットされてる三浦大輔さん……何回も私、評してますけども。やはり演劇人だからこそ、映画を撮る時は、映画というメディアにより意識的な作りっていうのを、どんどんどんどんするようになっている、っていうのを私、映画評の中でも、たとえば『そして僕は途方に暮れる』評の中でも言っていたと思いますけども、それともちょっと重なるようなスタンスかな、と思うんですけど。

とにかく加藤さんも、映画ならではの語り口、どんどん研ぎ澄ませていて。もちろん、ここぞという見せ場は……さっきのロヂャーさんのメールにもあった通り、「芝居場」のところは、役者たちのやり取りを、フィックス、固定画面の長回しでじっくりと捉えきる、という作りをちゃんとしてはいるんだけど、さっき言ったような、ちょっとした日々のやり取りの中に潜む歪みの蓄積、みたいなところはですね、これは金曜パートナーの山本匠晃さんも「セリフじゃないところ。沈黙の、空白の、余白のところがすげえ」って言っていて、まさにそこなんですけど。たとえば、ふっとある人物の表情を挟み込むだけで、やっぱりこれ、映画ですから。セリフなしでも、何事かがどっしり伝わってきたりはするわけですね。

例を挙げてゆきますけども、まず最初ね。序盤も序盤、電車に主人公が乗り込んでいって、席に着く。で、そのカメラがグーッと寄っていくと、その隣にいた人物が誰か?っていうのが見えるところの、やっぱり思わず「あっ、ああ……」って言ってしまう……これ、やっぱりカメラワークで、なんていうか人物関係の、もちろん説明にもなってるけど、その説明に、「あっ!」って言ってしまう何か、映画的なちょっとしたサプライズというか、虚を突く感じがあるというか、このあたりも上手いですし。

途中、門脇麦さん演じる綿子と黒木華さん演じる友人・英梨さんが、山梨に行くというくだり。レジでお金を払おうとした綿子の手元を、黒木華さんが一瞬、ふっと目線に入っちゃったんでしょうね、見て、一瞬「えっ?」っていう、怪訝そうな顔になるわけです。要は綿子は右手に……まあ観客は由来を知っている、ある指輪をしてるわけです。で、その、ちょっと一瞬ですよ? 別に「えっ?」とも言わない。見て、ちょっと怪訝な表情になる。でも、ふっと空気が変わった感じを察した綿子は、無言ですぐに指輪を外して、慌てて財布に入れた……のか?ぐらいの見せ方なんですね。「入れた」までは見せてないんですね。「入れたのか?」ぐらい。だから編集でそれを切るのが上手いんだけど。

これは要はですね、ボケッと見てたらスルーしてしまうぐらい、セリフもないですし、一瞬ですし、何気ないことをやっているショットなんだけども。ここ、ご覧なった方はおわかりの通り、第三幕、事態がより本格的に、深刻的に「ほつれ」てゆくあるきっかけにも繋がる、実はめちゃくちゃ重要な瞬間なんですよね。これね。すごい重要な瞬間なんです。それをこう、ふっと見せて……とか。

あるいはですね、その後二人はですね、古舘寛治さん演じるとある人物のお父さん、その思い出話を聞いてるところがあるわけですね。古舘寛治さん、非常に上手いですよね。本当にね、なんかちょっとしゃべり方が拙い感じが入るところも含めて、「上手い!」って感じなんですけど。古舘寛治さん。

そこで途中で(劇中の口調を真似て)「『救急車呼んで!』なんて言うんだけどね……」って言うんですけど、そこで、ずっと古舘寛治さんがしゃべっている顔を撮っていたんだけど、「『救急車呼んで!』なんて言うんだけどね」のところで、綿子のちょっとだけ曇る表情っていうのを、ふっと挟み込むわけです。これもご覧になった方はもうおわかりの通り、映画開始10分ちょっと経って起こる、これも最初は何気ない、別になんてことない……でもこのショット、結構続くな、みたいな。「ああ、なんか結構ショットが続くな」と思ってる中で起こる、あるショッキングな事件。「おっ、おおっ、おう……!?」ってことが起こるその事件と、それに対する綿子の、同じくちょっとショッキングなというか、しかし想像もしなかった異常事態を前にした人間がちょっと、ああいう保身に走ってしまうのも確かに理解できなくもない、という「とある選択」というのを、痛烈に想起させますよね。ここね。「『救急車呼んで!』なんて言うんだけどね」っていう。それも劇中、あからさまな説明なんかされないけど、それを突きつけてくる、ってのもあるし。

あとはこれ、戯曲のね、こっちの『綿子はもつれる』の方だと、わりとちゃんと人物が出てきて、こってり描かれる義母と前妻の子供との関係みたいな、それも、(今回の映画『ほつれる』では)もう玄関の靴の様子と、向こうからちょっと漏れ聞こえてくる声、これだけでもう全部わかる、みたいな、こういう風になっているし。

はたまたその後、綿子が向き合うことになる、それまで向き合うことをずっと避けていた、事の本質。その事の本質……一番気まずい事の本質をまさに体現している、ある当事者中の当事者と、サシで話をしなければならなくなっちゃった、という、非常に胃が千切れそうになるシーンがあるんですけれども。その会わなきゃいけない人物の顔はずっと、画面奥方向にいる綿子の方を向いたまま、すなわち観客には基本的に見えない、という風になっている。これ、安藤聖さんが演じているんですけどね。で、あまつさえ、そのなんていうか、なんとも息苦しいこの空気の圧というのがあるんだけれども、それを表現するかのように、カメラはゆっくりゆっくり、ジリジリと、わかんないぐらいの速度で、二人に寄っているんですよね。ちょっとずつ圧が増していく、みたいなのが、これもうまいという。

そもそも加藤拓也監督、前作『わたし達はおとな』の「現在」パート……『わたし達はおとな』は、現在のパートがスタンダードサイズで、過去のパートはビスタサイズなのかな? なんだけども、前回の現在パートに続いて、今回は全編がスタンダードサイズなんですね。わりと真四角に近いような感じというか。スタンダードサイズ。

たとえばですね、家の内見をすっぽかしてしまった綿子を、田村健太郎さん演じる夫の文則っていうのが、問い詰めるところ。ここなんか、要するにそのスタンダードサイズの中で、手前に夫がいて。で、その顔がこうあって。その中に門脇麦さんの顔が、圧迫されるように置かれていたりする。つまりこの、スタンダードサイズの「狭さ」っていうのを、すごく、やっぱりちゃんとうまく使ったレイアウトをしてるわけです。

言うまでもなくそれは……基本、舞台空間っていうのはね、どこを見てもいいわけですよ。演劇っていうのは。つまり演劇は、その空間が、開かれてるわけですね。その演劇とは対照的な、極めて映画的な……つまりその、「見せるもの」と「見せないもの」の線引きっていう、それをやるのが映画なんですね。それがはっきりしているのが映画なんだけど。それをとても意識的に使いこなしている。それを意識的に使いこなすための、このスタンダードサイズ使い、ってことなんですよね。よく映画というメディアの特性、考えられている、という感じがします。

日常に潜む「無自覚な暴力の応酬」

で、そこから浮かび上がってくるのはですね、ちょっと内容的には先ほど言ったことに繰り返しにもなりますけど、これ、雑誌『CREA』での監督インタビューの言葉を借りるなら、それぞれ異なる理屈や事情を抱えた他者同士というのがいるならば、その他者同士の……これは監督の言葉、「無自覚な暴力の応酬」っていう。これが加藤さんの今のところのメインテーマ、ってことなんでしょう。無自覚な暴力の応酬。

で、他者同士のこの無自覚な暴力の応酬の話だと思って観てゆくと、綿子が最後のクライマックスシーンぐらいのところで、「不倫してる時なら優しくいられたでしょう?」みたいなことを言うんですよね。これ、面白いなと思って。つまり、劇場パンフレットでですね、門脇麦さんがこう解釈してるんだけど……染谷将太さんがさすがの色気で演じる現・不倫相手の木村の位置に、かつては、今の夫がいたのかもしれない、っていうことですよね。

つまり、他者同士、ある程度適切に距離を保った距離感っていう……だから不倫相手同士だったらまあ、ある種の取り決め感みたいなところ含めて、距離を持って接してるから、お互いいいところだけを見せていられるんだけど。それが、家族とか、あるいは一緒に暮らしているような安定的パートナーとかになってくると、要はもう「他人ではない」関係になってくると、その距離感が崩れて、無自覚な暴力性っていうのが生じやすい、っていうことなんじゃないかなっていう風に思えてくるわけです。

で、それが主に本作で集約されているのは、皆さんがおっしゃる通り、田村健太郎さん演じる夫なわけです。田村健太郎さん……昨年の『マイスモールランド』、皆さん覚えてますよね? 一場面しか出てこないんだけど、あの、お役人ですよ! 在留資格のあれ(在留カード)にザクザク、ハサミを入れてくっていう、あのお役人役ですよ! あれと同じく、田村健太郎さん、物腰はソフトなんですよね。別に言っていることはソフトなんですけど、その分、オブラートに包んだ嫌な感じっていうか。それがやっぱりより際立っていて。本当に素晴らしいですね。ここは田村健太郎さん、本当に素晴らいあたりでございました。

また、そう考えるとですね、さっき言ったその、古舘寛治さん演じるお父さん。最初、他人として話を聞いてる時はまあまあ、とはいえ「息子とあんまりうまくいかなかった関係を語るお父さん」っていう感じでいいんですけど。ただ、ここで古舘さんを配役している時点で、これで済むわけは……ただのいい人役で古舘寛治、配役しないだろう、って感じもしてるんだけど(笑)。それは案の定で。第三幕で、綿子がある意味、要は最初は他人として話していたんだけど、完全な他人とも言えない距離の人なんだな、って気づいてから先。さっき言ったようにその他者同士っていうその距離感が崩れてから先は、やはりその、言ってる物腰はソフトというか、(劇中の口調を真似て)「いやこれ、勘違いしないでほしいのはらあなたを罰したいわけじゃないんです」「何をね、どうしようってわけじゃないんですけどね」なんてことを言いながら、綿子からすれば、「えっ? そこ、やっぱりこだわってんじゃん!」みたいな。

つまり彼からすれば、「なんか黙っているのは、気持ち悪いから、ねえ」みたいな……彼なりの理屈なんですよ。彼なりの合理なんだけど。こっちからすれば、「いや、それは罰しようとしている結果になりますよね?」みたいな。まあ、もうこっちからすれば無自覚の暴力……つまりやはり、要は無自覚な暴力の応酬を結局することになっちゃっている。ちょっとその関係性が、「他者じゃないんだな」ってなった途端に……もちろんこれは、綿子側からのそれも含めてですよ。綿子は綿子で、あの家まで来て。で、まあやってることは無自覚な暴力性を当然、含んでるわけです。

「画面の外側」を見てばかりだった綿子が、ラストで……?!

で、その中で綿子さんという人は、結局こういう感じで、ある種流されるように右往左往して、ここにたどり着いちゃった人なのかな、という感じもする。演じる門脇麦さん。「内に溜め込む」っていう役が本当に、十八番中の十八番だとは思いますが。とにかくこの綿子はですね、登場時から常に、どこか心ここにあらずといった感じで。たとえば、せっかく……「せっかく」って言い方もあれですけどね(笑)、染谷さん演じる不倫相手といる時も、なんかその不倫相手との関係に夢中というよりは、やっぱりなんか窓の外をボーッと見てたりとか、なんかどこか、ここじゃないどこかみたいなところを夢見てるような感じがしたりする。なんかボーッとしてるような感じがあったりするわけです。

で、ポイントはやっぱり、その綿子が、事の本質に向き合ってどうするのか?ってことなんけど。私、やっぱり面白いなと思ったのは、最後の最後。要はですね、彼女は他者の中に居場所を求め続けてきたんですよね。おそらくは、その不倫相手も……今の夫であり、染谷将太さん演じる不倫相手っていうところに求め続けてきた彼女が、その他者に居場所を求めることができなくなった状態で、短い一瞬なんですけど、「こちら」をまっすぐに見るんですよね。ずっとボーッと外を……画面の外側を見てばっかりだった綿子さんが、この最後だけこっちを、なんならカメラ目線みたいな感じで、こっちを見てくる。で、終わる、っていうあたりが、非常に印象的でございました。正直、さらにオチにもう一個、何かないのかな?っていう風に思ったりもしましたけど……こうやって汲み取って、読み取っていくならば、なるほど、という的確な着地ではあるかもしれないと思います。

ということでら加藤拓也さん、この調子ですね、まだお若いんで、どんどんどんどん映画でも腕を上げてくることは、絶対に間違いないと思います。私好みの倦怠カップル物、またひとつ、お気に入りが増えてしまいました。ミニマルな、本当に小さな小さな映画で、大きなことはあまり起きない作品だけど、もう胃が千切れそうなほど……まあ、つまりは「面白い」んでね(笑)。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(中略)

一個言い忘れてました。『ほつれる』、主人公・綿子が、ある報せをスーパーで買い物してる時に、電話で受ける。あそこのリアクションとか、もう……ねえ。何もしてないっちゃ何もしてないんだけども、門脇麦さん、すごいですね。厳しい場面でしたね。胃千切れ場面でした!

宇多丸『ほつれる』を語る!の画像はこちら >>

(次回の課題映画はムービーガチャマシンにて決定。1回目のガチャは『グランツーリスモ』。1万円を自腹で支払って回した2回目のガチャは『ジョン・ウィック:コンセクエンス』。よって次回の課題映画は『ジョン・ウィック:コンセクエンス』に決定! 支払った1万円はウクライナ難民支援に寄付します)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

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