
有朋は「苔によっては面白くないから、私は断じて芝を栽る」と言っていたそうです。日本庭園ではおなじみの苔ですが、芝がお好みだったよう。芝生は明るさを添え、日本の里山の風景に似たところがあります。しかし、京都は湿度が高いので自然と苔が生えてこの状態になったとか。
「苔の青みたる中に名もしらぬ草の花の咲出たるもめつらし」と、有朋は時を経るごとに自然が織りなす美を受け入れ、今では50種以上の苔が広がっています。また、庭師が有朋がしたように野花を愛でられるよう、庭園内に生育する野花を調査し、季節や場所に応じた手入れをされているそうです。
茶室と母屋は文化活動のための貸し出しも

©植彌加藤造園
茶室は藪内流の燕庵を模して造られています。明治28年(1895年)頃、無鄰菴に移築されました。茶会などに貸し出しも行っているそうです。

木造の母屋は、明治28年(1895年)に建築されました。有朋は別荘の主体は庭園にし、座敷から観賞することを目的としていたため、あえて簡素な造りになっています。こちらの2階も、無鄰菴が企画したイベントが行われるほか、茶会、華道、歌会、講演会など、さまざまな文化活動の会場としての貸切が可能です。
「無鄰菴会議」の舞台になった洋館

煉瓦造りの二階建ての洋館は、学習院などを手掛けた建築家・新家孝正によるものです。明治36年(1903年)4月21日には、この洋館の2階の間でロシアとの外交方針を語り合った、いわゆる「無鄰菴会議」が開かれました。出席したのは伊藤博文、小村壽太郎、桂太郎、そして山縣有朋と錚々たる顔ぶれ。歴史上非常に重要な会議として位置付けられています。