育児を始めてから、周囲からかけられる頻度が増えた言葉があります。それは「~でかわいそう」。
振り返ってみれば、独身時代は「かわいそう」と言われることはありませんでした。記憶にあるのは子ども時代、親の会社が倒産して「かわいそう」と言われたことぐらい。それ以来、仕事で失敗しても、失恋をしても、面と向かってかわいそうと言われたことはなかったのです。
■服装や体、就園や仕事…さまざまな「かわいそう」
出産して赤ちゃんを連れて歩くと、さまざまな場所で「かわいそう」という言葉に出会います。
道行く人からは、「赤ちゃん寒くない? かわいそうよ」「あら眠そう。
これが身内や知り合いになると、より家庭の事情に踏み込んだ内容に変わります。
「そんなに小さいうちから預けるなんてかわいそう」「保育園はかわいそう」「アレルギーがあるなんてかわいそう」「ママが仕事をするなんてかわいそう」「まだ兄弟がいないなんてかわいそう」……。母親の仕事、体や食、就園、兄弟構成などについて言われるようになるのです。
母親にとって子どもは自分より大切な存在です。
筆者もそのタイプで、特に1人目を育てていたときは「伸びた爪に気付けない自分はダメだ」と落ち込んだり、「爪を常に伸ばさないように気を付けなければ」と気を張っていたこともあります。
■自分が逆の立場なら「かわいそう」と言う?
しかし、自分が逆の立場だったら?と考えると、他人に対して「かわいそう」という言葉は使いません。「かわいそう」という言葉はどこか上から目線ですし、確実に相手を傷付けます。まだ何もできない赤ちゃんにかわいそうということは、つまり「あなたは赤ちゃんに『かわいそう』なことをしている母親ですよ」と言うことになるからです。
育児を経験して思うのは、育児を担う母親が心身の余裕を持つことが一番大切ということ。
それは大人相手だけではなく、自我の芽生えた子どもに対しても「かわいそう」という言葉は使いたくないと思います。子どもの頃「かわいそう」と言われた私は、正直、嫌な気持ちになりました。
問題が起きて悲しいことと、自分が「かわいそうな存在」というのは、全く別のこと。「かわいそう」という言葉は、人に対して使う言葉ではないようにも感じています。
■「かわいそう」をつけなければ言えないこと
たとえば「寒そうでかわいそう」は、「もう1枚着た方がいいかもね」「寝かせてあげたら」と言えば済む話です。それでも育児だと「かわいそう」に変わるのは、そこに「かわいそうだから直してあげてね」という指示が暗に含まれているのではないでしょうか。
さらに母親の仕事や就園、食や兄弟については、「かわいそう」を使わなければ言いにくい内容でもあります。ストレートに「仕事を辞めて子どもを見たら」「幼稚園にしなさいよ」「もう1人産みなさい」とは言いにくいけれど、「かわいそう」を付ければ言いやすい。中にはストレートに言う人もいますが、言う側の都合で使われている面もあるでしょう。
また、「1人っ子はかわいそう」と言ったと思えば、「3人もいたら1人ひとりに目がいかなくてかわいそう」と言う人もいます。
どちらにせよ、「『かわいそう』と加えることで相手が罪悪感を感じる」ことは、言う側も本当は気付いているのではないかと思います。本当の目的は相手の行動を直してもらうことですから、「『かわいそう』を付け加えることで自分が相手に指示するのを言いやすくしている」ようにも感じます。
■呪いの言葉に縛られないで
「かわいそう」という言葉は、時に呪いの言葉のように付きまとう言葉です。「自分は子どもの衣服の調節もできないダメな母親なのか」と落ち込む人もいれば、必要以上に過敏になって気にする人も。仕事や就園、子どもと自分の人生に関わる内容なら、何年も悩み続ける女性もいます。
筆者の場合、2人目で「1人目のときも同じこと言われた。みんなが言われる『あるある』なのだ」と気付きました。そして「かわいそうと言う側の本音」に気付くことで、やっと流せるようになったのです。とはいえ、モヤモヤが残ることだって多々ありますし、仕事と育児の両立にはいつも悩みます。
結局、言う側は変わりません。大切なのは自分が「かわいそうという呪いの言葉に縛られない」こと。忙しければ爪が伸びてるのに気付かないし、わが家にはわが家の仕事や就園、きょうだい事情があるのです。他者の言葉に惑わされず、あまり軸をぶらさずに自分の半径1メートル以内の生活を大切にするしかありません。
そうして自分は「かわいそうとは言わないおばあちゃんになる」と心に決めています。