潜水艦や空母などを独自に開発、建造していたことでも知られる旧日本陸軍ですが、実は海軍ですら持っていないような、高性能な特殊起重機船(クレーン船)をも建造し運用していました。名前は「蜻州丸」、その数奇な運命をたどります。
大日本帝国時代の陸軍と海軍は、政局にも大きな影響力を持つ巨大官庁でした。巨大官僚機構でもある陸軍と海軍はまず省益を守る、つまるところ政局と予算の獲得、組織維持拡大が本務と認識されている面があり、そして陸軍と海軍は予算を奪い合うライバルでした。
1926年4月6日、公試中の「蜻州丸」。巨大な主クレーンが目立つ。煙突の白い波線が陸軍船であることを示している。
「陸海軍あい争い、余力を以って米英と戦う」――国運を掛けた戦争であったはずの太平洋戦争ですら、日本海軍と日本陸軍は必ずしも万全の協力体制にあったわけではありません。「つまらないナワバリ争い」をした事例は枚挙に暇がなく、たとえば海軍は水陸両用戦車を造りましたし、陸軍も小型輸送船から空母まで独自で船艇を建造しています。残念ながらお互い専門外のこととて、上手くいった例はあまりありません。そのような「ナワバリ争い」の結果として生まれた、日本海軍も保有していないような陸軍の、1隻の特別な船があります。特殊起重機船「蜻州丸(せいしゅうまる)」です。
その特徴は、揚重能力150tという巨大クレーンを持ち、外洋航行もできるという点でした。海軍も湾内で使用する大小多数のクレーン船を保有していましたが、「蜻州丸」のように外洋航行ができる大型クレーン船はありませんでした。
陸軍が自前クレーン船を建造するきっかけとなったのは、1923(大正12)年8月に発効した「ワシントン海軍軍縮条約」です。戦艦などの主力艦の保有に制限を課し、建造中の艦は廃棄させられることになったのです。
ライバル省庁の陸軍が、艦艇に装備されている大砲に目を付けます。精密加工工業品である大口径の大砲は、陸軍ものどから手が出るほど欲しいものでした。そこで陸軍は、捨ててしまうのはもったいない、離島の沿岸砲や要塞砲に転用するので譲渡するように、と動きます。海軍はせっかく調達した物品を、ライバル省庁にあっさり渡すわけはありません。霞が関では様々な駆け引きがありました。結果、海軍は大砲を引き渡すが運搬、輸送は陸軍が自分で行うことになりました。

国連による中国鉄道復興事業で、香港九龍ドックにて重量100tの、アメリカのボールドウイン製機関車を陸揚げする「蜻州丸」(画像:国連アーカイブ)。
しかし戦艦クラスの主砲や副砲となると、その重量は砲身のみでも100t前後におよび、離島に輸送、設置するには大型クレーン船が必要でした。当時の日本にもそれだけの揚重能力のあるクレーン船はあるものの、港内を移動できる程度の船であり、外洋を航行するのは不可能でした。
そこで陸軍は自前で大砲を輸送、揚重すべく、専用の特殊起重機船「蜻州丸」を造ってしまいました。1925(大正14)年に建造が開始され、1926(大正15)年4月に竣工します。「蜻州丸」には甲板の半分を占める揚重能力150tという巨大な主クレーン1基と、その両脇に20tまでの小型の副クレーン2基を装備していました。主クレーンはバランスのため、船体中心線方向でのみ使用されました。
何ともつまらない意地の張り合いに見えなくもありません。わざわざ陸軍が海軍と面倒くさい調整をして移管手続きを行い、限られた予算を割いて特殊起重機船を建造しても、まだ新規に要塞砲を建造するよりは安上りだったようです。
戦艦の名がズラリ 「蜻州丸」が運んだ砲の数々「蜻州丸」は、1923(大正12)年9月20日に除籍されていた戦艦「鹿島」の砲塔四五口径三十糎加農(以下、砲名称は陸軍での呼称に基づく) 1基2門を東京湾要塞千代ケ崎砲台(神奈川県横須賀市)へ運搬したのを皮切りに、おもなところで下記のような運搬を実施しました。
・戦艦「安芸」の、砲塔四五口径二十五糎加農 連装2基を、東京湾要塞 三崎城ヶ島砲台へ運搬。
・巡洋戦艦「伊吹」の前部主砲塔、砲塔四五口径三十糎加農 連装1基を、津軽要塞大間第一砲台へ運搬。
・巡洋戦艦「伊吹」の後部主砲塔、砲塔四五口径三十糎加農 連装1基を、豊予要塞丹賀砲台へ運搬。
・巡洋戦艦「生駒」の前部主砲塔、砲塔四五口径三十糎加農 連装1基を、東京湾要塞 洲崎第一砲台へ運搬。
・巡洋戦艦「鞍馬」の第一、第二副砲塔、砲塔四五口径二十糎加農 連装2基を、東京湾要塞 大房崎砲台へ運搬。
・戦艦「摂津」の後部主砲塔、砲塔五十口径三十糎加農 連装1基を、対馬要塞 龍ヶ崎第一砲台へ運搬。
・戦艦「摂津」の前部主砲塔、砲塔五十口径三十糎加農 連装1基を、対馬要塞 龍ヶ崎第二砲台へ運搬。
・戦艦「土佐」の一番砲塔、砲塔四五口径四十糎加農 連装1基を、対馬要塞 豊砲台へ運搬。
・戦艦「土佐」の二番砲塔、砲塔四五口径四十糎加農 連装1基を、釜山要塞 外張子嶝砲台へ運搬。
・巡洋戦艦「赤城」の一番砲塔、砲塔四五口径四十糎加農 連装1基を、壱岐要塞 黒崎砲台へ運搬。
このように、戦艦クラスの主砲塔だけでも8隻ぶんを国内外、離島や朝鮮半島にも運んでいます。
太平洋戦争を生き残り終戦後も運用された「蜻州丸」太平洋戦争が始まると「蜻州丸」は陸軍の輸送任務に従事し、攻勢期のフィリピン方面への重機材輸送に重宝されます。戦争中はシンガポールを中心に、インドネシア方面で輸送や荷役任務に就いていました。軍艦や輸送船に脚光が当たりますが、こうした「地味な」支援船も居なければ、ロジスティクス網は完成せずその功績は大といえるでしょう。速力10ノット未満の低速船で何度も外洋航行していますが、幸運にも被害を受けること無くシンガポールで終戦を迎えます。

ボールドウイン機関車を線路に降ろそうとしている「蜻州丸」(画像:国連アーカイブ)。
進駐してきたイギリス軍は、この便利な船を見逃しませんでした。早速、接収して香港で使用、鉄道機材の荷役で100t近い機関車を揚重している姿の写真も残っています。海運国イギリスでもこの大型クレーン船は重宝されたようで、戦後復興の一助になって働いていたのですが、1946(昭和21)年に香港で台風により沈没してしまいました。
陸軍と海軍の意地の張り合いで生まれたような特殊起重機船「蜻州丸」は、戦前、戦中、戦後と縁の下の力持ちとして重用されました。一方で「蜻州丸」が本来任務で要塞群に運搬した大砲が実戦で火を吐くことは、ほとんどありませんでした。
※誤字を修正しました(12月5日14時05分)。