国産戦闘機で最も多く製造された旧日本海軍の零式艦上戦闘機(零戦)は、高い性能などから長い期間にわたり使われましたが、性能はどのようにして決まったのでしようか。当時の日米の戦闘機事情から背景を探ります。

米海軍と比べて劣勢だった旧海軍の艦上機分野

 国産戦闘機では最多の1万機以上が造られた、旧日本海軍の零式艦上戦闘機(零戦)。日中戦争でデビューし、その後起きた太平洋戦争では開戦から終戦まで長らく使われた航空機です。

 零戦は優れた格闘性能や、大威力の20mm機銃、長い航続距離を兼ね備えており「堀越技師の努力で実現不可能に近い旧日本海軍の要求性能を達成した」と語られることもあります。なぜそんなにも高い要求性能が出されたのでしょうか。

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南太平洋ニューブリテン島ラバウルの飛行場から飛び立つ零戦二一型(画像:アメリカ海軍)。

 零戦の誕生の基となった「十二試艦上戦闘機計画要求書」が出されたのは、1937(昭和12)年9月です。この時点で、仮想敵国のアメリカがどんな航空機を開発していたのかを考えずに、旧日本海軍の要求性能が高すぎたかどうかというのは、なかなか判断できないでしょう。

 そこで1937(昭和12)年当時の、アメリカの艦上戦闘機はというと、以下の通りです。

・F3F-3複葉戦闘機(初飛行は1935年3月)
最高速度425km/h、航続距離1577km、12.7mm機銃1門、7.62mm機銃1門
・F2A単葉戦闘機(初飛行は1937年12月)
最高速度489km/h、航続距離1762km、12.7mm機銃3門、7.62mm機銃1門

 一方、日本の艦上戦闘機は、以下のものでした。

・九六式一号艦上戦闘機(単葉機。初飛行は1935年2月)
最高速度406km/h、航続距離1200km、7.7mm機銃2門

 こうして比較してみると、九六式一号艦戦は、アメリカのF3F-3およびF2Aには、速度、航続距離、武装のすべてで劣っているのがわかります。

 九六式艦戦は後期型の四号で、エンジンを換装し最高速度を432km/hまで向上させていますが、それでもF2Aよりも遅く、運動性能では複葉機のF3F-3に劣ります。

空中戦での不利は否めないといえるでしょう。

 だからこそ旧日本海軍は、新型の艦上戦闘機(十二試艦上戦闘機)に、これら既存のアメリカ製艦上戦闘機を凌駕する性能を求めたのです。

日米でのエンジン差が零戦にも大きく影響

 他方で、十二試艦上戦闘機(のちの零戦)の開発目的には「敵攻撃機の阻止撃攘」(撃攘は撃退の意)というのも明記されていました。では当時、アメリカにはどのような攻撃機があったのか、それは以下の通りです。

・B-10爆撃機(エンジン2発。初飛行は1932年2月)
最高速度343km/h、航続距離1996km、7.62mm機銃3門
・B-17重爆撃機(エンジン4発。初飛行は1935年7月)
最高速度406km/h、航続距離3218km、12.7mm機銃5門
・B-18重爆撃機(エンジン2発。初飛行は1935年4月)
最高速度348km/h、航続距離1450km、7.62mm機銃3門

 特にB-17は、九六式艦戦では対抗不能です。また空母搭載の単発エンジン機についても、1936(昭和11)年初飛行のSBA艦上爆撃機が最高速度424km/h。TBD艦上雷撃機(攻撃機)は最高速度331km/hで、九六式艦戦では厳しい相手です。

 ゆえに零戦の20mm機銃は、「命中率が悪いのになぜ装備したのか」といわれることがありますが、高速で攻撃機会の少ないアメリカ製爆撃機(雷撃機)に短時間で致命傷を与えるために必要なのです。

 なぜ旧日本海軍の艦上戦闘機は脚が遅いのか。

それはエンジン出力に大差があるからです。九六式一号艦戦のエンジン出力は460馬力、改良型の四号が610馬力でした。対するアメリカはF3F-1で650馬力、1936(昭和11)年に登場したF3F-3で950馬力です。F3F-3に関しては、零戦の初期型である二一型が搭載した「栄」一二型エンジン(940馬力)よりも高出力のエンジンを搭載していたといえるでしょう。

 なお、零戦の原型である十二試艦上戦闘機が搭載したエンジンは出力875馬力の「瑞星」一三型であり、当初は零戦の量産型もこのエンジンを搭載する予定だったため、より厳しい条件での機体設計が求められたことがわかります。

 すでに実用化されているアメリカ製艦上戦闘機のエンジンの方が、これから開発する十二試艦戦(零戦)のエンジンより高出力なのですから、設計者の苦悩は大きかったのではないでしょうか。

零戦のエンジンを最初から「金星」にしたら?

 極論すると、零戦は当初から低出力なエンジンを補うために、機体設計で何とかするしかなかったといえるでしょう。ただ、一方で零戦の設計を語るうえにおいて「高出力の金星発動機を搭載すれば高性能になったのではないか」という指摘もあります。

 これは本当でしょうか。1939(昭和14)年10月に金星エンジンを搭載した零戦が計画されましたが、三菱側は局地戦闘機「雷電」の開発で余力がないと断っています。この時に「雷電」を他社が手掛けていれば、高性能な戦闘機が得られたのでしょうか。

零戦の性能どうやって決まった? 日米のエンジン差が影響 厳しい設計の背景

終戦後にアメリカ軍が接収しテストを行う旧日本海軍の局地戦闘機「雷電」(画像:アメリカ海軍)。

 三菱も、一回は「金星」エンジン搭載零戦の開発を断ったものの、太平洋戦争末期に性能的な限界を迎えていた零戦を改良すべく、エンジンを「栄」から「金星」に換装した零戦五四型を生み出しています。零戦五四型は、換装後に重量が180kg増加していますが、エンジン本体の重量増加分は104kgのため、それ以外で76kg増えていることになります。

 これを踏まえると、零戦の初期型である二一型で、搭載エンジンを「栄」一二型から同時期に量産されていた「金星」四〇型に変えた場合では発動機で20kg増え、20+76=96kgは重くなると推測されます。

「金星」四〇型を搭載した零戦は、96kg増えるなら自重は1848kg程度となり、零戦二一型の1754kgより重くなります。エンジンを「栄」一二型から同二一型へ換装した零戦二二型(1863kg)と大差ない重量である一方、出力は「金星」四〇型は1060馬力であるのに対し、実際に零戦二二型が搭載した「栄」二一型は1130馬力で大差ないため、「金星」四〇方に換装したとしても性能向上は微妙でしょう。

 なお、海軍は「栄を金星とすれば航続力が20%低下する」と試算しており、史実のような大滞空時間を活かした活躍も難しかったと思われます。

 より出力を向上した「金星」五〇型(1300馬力)なら性能向上が見込めますが、これは太平洋戦争中盤以降の登場で、実際に搭載した九九式艦上爆撃機二二型は、1943(昭和18)年1月の登場です。零戦が圧倒されたアメリカ海軍のF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機は、この頃には実用化されており、勝ち目がありません。つまり、「金星」エンジンへの換装は無意味と考えられます。

 零戦でやや残念なのは、設計側が想定した三菱製エンジンである「瑞星」一三型を、「栄」ではなく性能向上型の「瑞星」二一型に換装できなかったことです。「瑞星」エンジンを搭載した零戦は出力875馬力ながら、機体下部に膨らみがないなど、空力的に「栄」搭載零戦より優れていたからか、ほぼ同じ性能を発揮したとされています。

「瑞星」二一型エンジンは、出力1080馬力で1段2速過給機も装備し、史実の「栄」一二型より出力も高空性能も上でした。

この発動機はトラブルを起こしつつも、1940(昭和15)年より量産に移行しましたから、「瑞星」二一型へのエンジン換装が実現し、かつトラブルも少なければ、史実よりやや高性能な零戦二一型が、開戦後すぐに登場したかもしれません。

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