真珠湾攻撃はそもそも、ハワイまで有効な打撃力を派遣できるかどうかすら不明な状況から始まりました。その先に考えられていたハワイ占領は、そもそも可能だったのでしょうか。

ロジスティック面から真珠湾攻撃のその先を考察します。

真珠湾攻撃の成功で抱いてしまった夢物語

 2021年12月7日(ハワイ現地時間、以下同)は、旧日本軍によるハワイ真珠湾攻撃から80周年にあたります。1941(昭和16)年12月7日に実施された同作戦の成功により、短期決戦なら太平洋戦争に勝機はあるかもしれないと日本は期待してしまいました。そこで勝利を決定づけるためハワイ攻略、すなわち攻撃のみならず占領をともなう作戦を企図します。ハワイへの航路はつまり、日本が短期で勝利するための航路というわけです。

 1942(昭和17)年6月のミッドウェー作戦はその足掛かりになるはずでしたが、しかし作戦は失敗し潮目が変わってしまいます。ミッドウェー海戦で勝利していたら、ハワイ攻略はできたのでしょうか。

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ヒッカム飛行場上空を飛ぶ空母「瑞鶴」所属の九七艦攻。中央で黒煙を上げているのは戦艦「カリフォルニア」(画像:アメリカ海軍)。

そもそもハワイは手が届くの? 真珠湾攻撃前夜

 ハワイ航路は、日本海軍にとってはまさに見果てぬ憧れでした。真珠湾は多くの沿岸砲台と太平洋艦隊に護られた難攻不落の要塞です。一方、日本海軍の艦艇はアメリカ艦隊を引き寄せて艦隊決戦を挑むという発想で建造されていたので、足は短かったのです。

太平洋戦争開戦前夜、途中補給なしでハワイ航路を往復できる航続距離を持つのは空母「加賀」「翔鶴」「瑞鶴」、戦艦「比叡」「霧島」の5艦だけでした。

 そうしたなか真珠湾攻撃を、戦艦群ではなく航空機で行おうという日本海軍の発想は、不意急襲の効果以外に、真珠湾要塞の沿岸砲よりも対空防備の方がまだ手薄と考えたからともいわれます。

 とにかく不意急襲効果を高めるには、艦隊が発見されないことが第一ですが、空母6隻、戦艦2隻など水上艦だけでも20隻の大所帯であり、不用意に近づけば早々に発見されてしまいます。そこで連合艦隊は過去10年間の太平洋を横断した船舶の航路と種類を調べあげ、その結果、11月から12月にかけては北緯40度以北を航行した船舶が皆無であることを発見します。しかし冬季の北方航路は海が荒れます。さらに、足の短い艦隊には洋上補給が必須で、タンカーが7隻も同行します。そうした要素を勘案し、できるだけ北の航路を取りながら洋上補給ができる程度には平穏、というギリギリの条件で航路が決められました。憧れのハワイ航路は試練の航路でもあったのです。

かくて真珠湾攻撃は成った その後の戦略は…?

 アメリカは日本の外交暗号の多くを解読していましたが、12月に入っても第一航空戦隊(「赤城」「加賀」)と第二航空戦隊(「飛龍」「蒼龍」)の所在はつかんでいませんでした。またアメリカ海軍内では、日本軍によるハワイ攻撃が想定されていたものの、そうしたリスクを承知の上でか否か、アメリカ政府は日本への外交的圧力を強化するため、太平洋艦隊を本拠地のサンディエゴからハワイに前進させていました。

 かくして1941(昭和16)年12月7日の真珠湾攻撃は成功し、集結していた太平洋艦隊に大打撃を与えて、日本海軍機動部隊はハワイ航路から凱旋したのです。

ロジスティックから見たハワイ攻略 真珠湾攻撃と「その先」 旧日本軍の手は届いたか?

真珠湾攻撃の機動部隊に随伴したタンカーの1隻「神国丸」。
1941年9月25日特設給油艦として艤装した際に撮影。民間籍だが政府の助成で建造され戦時には徴傭される。

勝利への隘路 ハワイを占領せよ!

 日本の戦略には、憧れのハワイ航路の制空権、制海権を得ることが必須でした。第一段作戦(南方作戦)の成果を防備拡大するため第二段作戦(オーストラリア占領、米豪遮断、ハワイ占領)が企図されます。

 第二段作戦のタイムスケジュールは、1942(昭和17)年5月に東部ニューギニアのポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)、6月にミッドウェー攻略作戦(MI作戦)、アリューシャン攻略作戦(AL作戦)、7月にフィジーおよびサモア攻略作戦(FS作戦)、10月にハワイ攻略作戦というものでした。運命のMI作戦にはミッドウェー島攻略のほかに、制空権、制海権を確保するためのアメリカ空母殲滅という、ふたつの目的がありました。

 この稀有壮大な第二段作戦が日本勝利の分水嶺でした。ロジスティクス面からもハワイ攻略までが攻撃の限界点であり、ハワイ占領という衝撃をアメリカに与えて早期講和に持ち込もうと考えていたようです。

実際のところハワイ占領は可能だったのか?

 ハワイ航路を往復するだけでもやっとだった日本に、ハワイ攻略は可能だったのでしょうか。色々な指標がありますが、ここでは石油備蓄推移で見てみます。

 日本の1941(昭和16)年初めの石油備蓄量は840万t、年間取得は199万t(南方油田地帯占領による)、これらを合計すると1039万tになります。一方、消費量は825万tとなり、残量は214万tになりました。

1942(昭和17)年初めの石油備蓄残量は214万t、これに前年と同量程度の取得があっても413万tと、備蓄量は一挙に前年比60%減となります。

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太平洋戦争中の、ハワイ攻略作戦を想定した場合の日本の石油備蓄量推移(画像:月刊PANZER編集部)。

 ハワイ攻略作戦に必要な石油量は、90万tから100万tが必要と見積もられています。1942(昭和17)年の残り石油は320万t前後になってしまい、前年の消費量825万tには到底、及びません。開戦初頭は作戦行動が多く軍需消費が多かったことを考慮しても、この年にはほかの作戦行動はおろか国家経営が危機に陥るのは明白です。

 ハワイ攻略作戦の計画では、6個師団の上陸部隊と空母機動部隊、戦艦戦力を投入することになっていました。備蓄を使い果たす覚悟の全力投入決戦ならばハワイ攻略作戦は実施できたかもしれません。しかし占領するとなると補給線を維持しなければなりません。

 ハワイは食料自給ができません。土地は肥沃でしたが、ほとんどの農地はパイナップルなど商品作物が作付けされており、食料のほとんどをアメリカ本土から船で運び込んでいました。1941年12月時点で、住民42万人の40日分しか食料備蓄がありません。アメリカ陸海軍に限っても4万2000名の60日分しかありませんでした。

日本の国力でこの島を食べさせるのは不可能です。

 真珠湾攻撃成功の勢いを駆るつもりだったMI作戦は、空母4隻を失うという失敗で、日本の第二段作戦はとん挫します。しかしMI作戦の如何にかかわらず、日本にとってハワイ航路は見果てぬ夢だったのです。

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