C-54輸送機と聞いてもあまりピンと来ないかもしれませんが、マッカーサー元帥が厚木飛行場にやってきたときの乗機といえば、絵面が思い浮かぶことでしょう。その原型機DC-4とあわせ、WW2前後を通し何かと日本に縁のある飛行機でした。
1945(昭和20)年8月30日、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ちました。丸腰でコーンパイプをくわえ飛行機から降りてくる映像は有名ですが、記者に写真を撮らせるためわざとゆっくりタラップを降りたそうです。しかし絵面とは裏腹に、本人はとても緊張していたといいます。
乗って来た飛行機は元帥の専用機、C-54輸送機「バターン号」(2号機)です。C-54は第2次世界大戦期の航空機のなかでもあまり目立たない輸送機ですが、何かと日本とかかわりの深い機体です。
1945年8月30日、厚木飛行場でC-54「バターン号」から降りるダグラス・マッカーサー元帥。
C-54は1930年代にアメリカのダグラス社が、ヒット作DC-3旅客機の後継として開発した、DC-4旅客機の軍用輸送機版です。ややこしいのですが、DC-4には別物の2種類の機体があります。
最初のDC-4はダグラス社初の4発(エンジン4基搭載)旅客機として開発され、1938(昭和13)年6月7日に初飛行しています。しかし旅客機としては大型すぎてエンジンパワー不足、構造も複雑で整備が難しく故障が頻発しました。形式証明は公布されたものの実用性に欠けるとしてエアライン会社には売れず、1機だけ作られた試作機も失敗作とみなされて、試験機を意味する「E」を付与されDC-4Eと改称されます。
そして当時、4発陸上攻撃機の開発を目論んでいた日本海軍が、どういうわけかこのDC-4Eに目を付け、大日本航空名義で購入します。
さて、ダグラス社はDC-4Eの失敗から改めてDC-4の設計を堅実な方法でやり直し、機体もやや小型化したDC-4Aの開発に着手しますが、直後に第2次世界大戦が勃発します。1940(昭和15)年1月にはアメリカのエアライン会社から発注を受けるようになったものの、1941(昭和16)年12月に日本軍の真珠湾攻撃を受けアメリカも参戦、ダグラス社も旅客機の開発どころではなくなります。

アメリカ陸軍航空軍のC-54輸送機(画像:アメリカ空軍)
軍用機生産が忙しくなりDC-4Aの開発は遅延し、1942(昭和17)年2月14日に初飛行しますが、軍用が優先され陸軍航空軍向けのC-54「スカイマスター」、海軍向けのR5Dとして生産されるようになりました。
床構造などが補強され、兵員にして50名、貨物にして14.5tを運ぶことができる本格的な軍用輸送機仕様となったC-54が配備されたのは、戦争中盤の1943(昭和18)年2月からでした。

サイパン島のアスリート飛行場に集結したB-29爆撃機。(画像:アメリカ陸軍)。
やがて、アメリカ軍はサイパン諸島を基地としてB-29爆撃機で日本爆撃を始めますが、おもにエンジンにトラブルが多発したB-29を何の工業的基盤のない南方の島しょで運用するのは大変でした。
アメリカ本土西海岸からは約9000kmも離れていますし、東京との往復作戦距離は約5000kmに及びます。そしてB-29は100機単位で運用され、そのエンジンからビス1本に至るまで、アメリカ本土から運ぶ必要があったのです。製造されたB-29が本土からサイパン島へ配備される際には、爆弾倉に予備エンジン1基のほか、予備パーツを満載して飛んだほどです。

露天で満足な揚重機材も無いサイパン島の飛行場でエンジン交換をするB-29(画像:アメリカ空軍)。
このアメリカ本土とサイパン諸島の補給線を支えたのが、C-54です。
B-29の作戦行動を支え 旅客機として日本へ当時、アメリカ本土からサイパン諸島への輸送船による海路輸送は数週間を要しました。大型飛行艇も空輸や連絡に使われていましたが、そうしたなかで、荷役や運用の使い勝手がよい大型陸上輸送機が投入できたことは画期的でした。
C-54を使えば、カリフォルニア州サクラメントの航空機材料廠からハワイ経由でサイパンまで、2日で補給品を空輸できました。B-29の作戦行動は、このC-54による補給線で支えられていたといってよく、もしC-54が無かったらB-29の稼働率はもっと低くなり、日本の被害も少なかったかもしれません。

フランクリン・ルーズベルト大統領専用機として改造されたC-54「the Sacred Cow(聖なる牛)」号。
C-54はその信頼性の高さからVIP専用機としても使われ、フランクリン・ルーズベルト大統領専用機にもなりました。そして終戦後、日本占領軍司令官として乗り込んできたダグラス・マッカーサー元帥も専用機として使ったのです。
停戦後、日本の河辺虎四郎中将以下の停戦交渉団がマニラに向かう際に差し向けられたのもC-54でした。

厚木基地に降り立ったマッカーサー元帥と幕僚。背景にC-54「バターン号」が見える(画像:アメリカ国立公文書館)。
マッカーサー元帥の乗機には「バターン号」と名づけられていますが、これは日本軍のフィリピン侵攻作戦で捕虜となったアメリカ軍将兵が移送の際に多数死亡した、いわゆる「バターン死の行進」から取ったものです。復讐心が込められているようで、日本人としては複雑な思いになります。

C-54に乗り込む停戦交渉団長の河辺虎四郎中将(中央)。1945年8月19日、琉球諸島の伊江島飛行場にて(画像:アメリカ海軍)。
終戦後、C-54はジェット機の急速な導入と軍用輸送機需要の縮減によって、1947(昭和22)年には生産が終了します。しかし、信頼性が高く使い勝手も良かったことから旅客機として各国に払い下げられ、日本でも1951(昭和26)年にエアラインが復活すると、日本航空がこれを導入、戦後復興のシンボルとして記念切手も発行されます。C-54は日本にとって単なる航空史以上の、歴史の1ページを飾る飛行機です。