太平洋戦争中、数多くが軍にチャーターされた民間船舶。そのなかでも大型高速の「ニューヨーク・ライナー」と呼ばれた貨物船は、上陸作戦には欠かせないものでした。

それらの船が果たした役割と戦争への影響を探ります。

陸軍の大部隊を戦時にどうやって迅速に運ぶか

 第2次世界大戦を始めとして、戦時には各国の軍隊とも多くの民間船を徴傭(ちょうよう、チャーターの意)します。とくに海軍の場合は輸送船としてだけでなく、特設艦船として巡洋艦や水上機母艦などにも転用しました。

 そういったなか、太平洋戦争では旧日本陸軍が徴傭した民間船、なかでも「ニューヨーク・ライナー」と呼ばれた高速で大型の貨物船が重要な役割を果たしました。しかし、それらのフネは重用されたがゆえに過酷な運命をたどることになったのです。それではこれら優秀な貨物船が、どのような役割を担っていたのか見ていきましょう。

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パナマ運河通過時の大阪商船の「関西丸」。同船は総トン数8360トン、速度18.6ノットの優秀船であった(画像:アメリカ海軍)。

 旧日本軍が使用した徴傭船において比較的名が知られているのは、日露戦争でバルチック艦隊を発見した「信濃丸」でしょう。同船はもともと日本郵船が保有する貨客船でしたが、戦争勃発に伴い海軍に徴傭され、仮装巡洋艦としてパトロール任務についていました。

 一方、陸軍は、軍隊や軍需品を運ぶ輸送船としてそれらを使用しました。旧日本陸軍は、海外で戦う軍隊だったうえに、国内戦においても四周を海で囲まれている以上、軍隊を船で運ぶのは必要なことでした。

たとえば日清戦争では、日本が保有する排水量100トン以上ある船の総計30万総トンの65%を、日露戦争では同じく80万総トンの56%を徴傭しました。

 第1次世界大戦の終了後、日本の海運業界は大きく飛躍をとげ、世界第3位の船腹(船の総トン数)を持つまでになっていましたが、その内実は小型の老朽船が多くを占める状態でした。さらにそれは、昭和恐慌によって、輪をかけて悪い状態になったのです。

 当時、旧日本陸軍は、単独で上陸作戦を行うようになりつつあり、最前線で軍隊を運ぶ輸送船の徴傭は、従来よりも必要性が高まっていました。一方、海軍は、戦時に必要とされる補助艦艇を徴傭船で増強することを考えていました。

 こうして海運業界と陸海軍の利害が一致した結果、一定の基準を満たした優秀船を建造する場合、戦時に軍が優先的に徴傭できるようにする代わりに、国が補助金を出すことで民間の船会社が新船を導入しやすくする諸制度を整備することになりました。

 これが、1932(昭和7)年から1936(昭和11)年まで三次にわたって行われた国策「船舶改善助成施設」です。この政策は、より軍事色を強めた「優秀船舶助成施設」「大型優秀船建造助成施設」(1937年)まで続きました。

手っ取り早く高速貨物船を揃えるための方策

「船舶改善助成施設」「優秀船舶助成施設」「大型優秀船建造助成施設」で建造された船は多岐にわたりますが、陸軍が重視したのは「ニューヨーク・ライナー」と呼ばれる、高速大型の貨物船でした。「ニューヨーク・ライナー」は、排水量の平均は約9000総トン(積載量で約1万トン、大きさは横浜にある「氷川丸」と同程度)、最高速度の平均は19ノット(約35.2km/h)で、戦時には所要の設備を施すことで上陸作戦に適した高速の大型輸送船となることができる性能を有していました。

 では、どのような設備が陸軍の軍隊輸送船には必要とされたのでしょうか。まず必要とされたのは兵員居住区です。

これは船倉(倉庫)に設けられました。兵員用の居住施設は、おおむね3段程度の板敷で、蚕を育てる棚に似ていたことから「蚕棚」と呼ばれています。また兵員居住区の下、最下層の倉庫には馬欄甲板と呼ばれる軍馬の居住区も設けられ、船外から仮設の通風筒が延びていました。

太平洋戦争の快進撃支えた「民間船」 高速貨物船ニューヨーク・ライナーたちの悲劇
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ニューギニアの海岸で擱座した「綾戸山丸」。門型のデリック・クレーンと船首に7.5cm野砲が搭載されているのがわかる(画像:Australian War Memorial)。

 また乗船する兵士のため甲板上には烹炊設備や給水タンク、厠(トイレ)が設けられていました。トイレは海水を使った水洗式ですが、汚物は船腹からそのまま垂れ流しでした。

 上陸作戦用の設備として、「大発(大発動艇)」や「小発(小発動艇)」などの上陸用舟艇を泛水(へんすい、水に浮かべること)させるために必要な大型のデリック・クレーンも設けられました。ほかにも、軍用無線の設備や船団として航行するのに必要な「編隊航行灯」も設置されています。加えて一部の船は「防空基幹船」として、高射砲や高射機関砲も搭載しました。

 旧日本陸軍は、こうした船にどの程度の兵員や装備を搭載できると考えていたのでしょう。「幕僚手簿」と呼ばれる当時の史料には、1個師団でおよそ15万総トン、上陸先鋒を担う1個支隊(歩兵連隊と砲兵大隊主体)で3万総トンが必要と見積もられていました。

また、陸軍運輸部の規定では、兵士ひとりで3総トン(熱帯地で5総トン)、野砲では18総トンとされています。つまり、一度に大量の武装兵を上陸させる上陸作戦の先鋒には、その積載量からも、「船舶改善助成施設」で建造されたニューヨーク・ライナー型の輸送船が適
していたのです。

 実際に、太平洋戦争の劈頭、強襲上陸作戦となったマレー半島のコタバル上陸作戦では、投入された「淡路山丸」(三井商船船舶部:排水量9749総トン)、「綾戸山丸」(三井商船船舶部:同9749トン)、「佐倉丸」(日本郵船:同9600総トン)の3隻とも船舶改善助成規定で建造されたニューヨーク・ライナー型で、1個連隊基幹の戦闘部隊を、敵の砲火を冒して約4時間で上陸させています。

優秀ゆえに酷使され、多数の被害を出す

 しかし、補助金制度があったにもかかわらず、こうした高速大型の貨物船の隻数は不足していました。太平洋戦争緒戦においても、14ノット(約30km/h)以上の船団速度を持つ高速貨物船は24隻しかありませんでした。

 その数少ない優秀船も、戦争の半ばまでに多くが沈んでいます。先に挙げた「淡路山丸」は、開戦してすぐの1941(昭和16)年12月8日の時点で、爆撃によって炎上放棄され、太平洋戦争の戦没船第1号になっています。また日本郵船のS型およびN型と呼ばれたニューヨーク・ライナーも、大阪商船の関西丸型も、陸軍に徴傭された分は最前線もしくはそれに近い海域で戦没しています。

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アメリカ軍によって撮影されたパナマ運河通過時の「那古丸」。緒戦のマレー半島シンゴラ上陸から活躍するが1942(昭和17)年に爆撃をうけて沈没(画像:Naval History and Heritage Command)。

 船舶被害の統計から見てみると、緒戦のマレー半島上陸作戦で第一線兵団を運んだ船の平均トン数は8000総トンでしたが、輸送船がすべて撃沈されたことで「ダンピール海峡の悲劇」とよばれた、1943(昭和18)年3月のニューギニア向け軍隊輸送では、1隻平均3500総トンとなっており、ここからも大型船が著しく減少していたことがわかります。

 さらに、太平洋の要衝であるサイパン島をはじめとしたマリアナ諸島防備のための輸送船団は、1か月にわたり延べ127隻の輸送船(海軍所属の船も含む)を使用しましたが、その1隻当たりの船腹は1369総トンにしかなりませんでした。

こうした小さい船で部隊や装備を運んでいては、いつまでたっても前線の防備は完成しません。

 実際のところ、すでに1942年の後半に行われたガダルカナル島強行輸送で、軍隊輸送、とくに敵前での輸送おいて使用された大型高速輸送船には約50%の被害が出ていたのです。

 1943(昭和18)年10月の絶対国防圏の策定から、翌年2月のマリアナ諸島への集中輸送の間、日本の船舶喪失数は152万720総トンでした。これは単純計算して18個師団を輸送できる数値です。

 太平洋戦争において、日本の戦争遂行能力にとどめをさしたのは、日本本土への海外物資ルートを狙ったアメリカ潜水艦なのはたしかでしょう。しかし、前線に新たな兵力を早急に展開する能力を失い、日本が「戦えない状況」に追い込まれてしまった大きな原因は、危険な任務に投入された高速大型船の最前線における被害の累積だったといえるのでないでしょうか。

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